2016年10月27日
第2回 金沢マラソン 感動は再び
金沢マラソン2016の「ちょっとよるまっし」ガイド のチラシ
お久しぶりです。3月12日以来のアップです。 ほんとうに ここんとこブログさぼっていました。 この間、面白い話はいっぱいありましたが、筆不精のたちはなかなか抜け切れませんで・・・。
そんな私でも、金沢マラソンについては書かないわけにはいきません・・・感動の覚めやらぬうちに。
ということで、昨年に引き続き、金沢マラソン 書きます。
昨年とはうってかわって天候に恵まれた今年のマラソン当日(10月23日)。
そして今年も昨年同様、当館は「応援者おもてなしスポット」に指定していただきました。 関係者の方々に心から御礼申し上げます。
今年は、柔道での、オリンピック2大会連続のメダリスト 松本薫さんも出走するとあって 応援する側の私としてもワクワクしていました。
昨年のブログにも書きましたとおり、当館前はスタートの広坂通りから間もない地点です。 よって、フル走行を狙う人もそうでない人も 全員が通過するわけです。 そして当館前通過時は殆どのランナーは元気いっぱいなのです。
皆、にこやかに手を振って、沿道の応援・声援に応えてくれていました。 昨年同様、次第に声援のボルテージもあがって行きます。 アチコチで、応援者とランナーのハイタッチによる交歓が見られ出しました。
スタート地点から近いため、ランナー達の集団は全くといっていいほどバラけていません。 だから、個別のランナーをとらえるのはちょっと難しそう。
スタートから10分以上は経っていた頃でしょうか・・・いろんなランナーとエール交換のハイタッチを交わしながら 、松本薫さんの疾走する場面を待ちこがれていました。
ある仮装したランナーとタッチを交わしていたその時、
「全身に精悍な、凄いオーラをまとったヒト」
が駆け抜けました。 しばらくしてそれが松本薫さんだと分かりあわてて大声をあげました・・・「松本さ~ん 頑張って !!! 」と。
目の前を数メートルは通り過ぎていて、私は少し悔やみました。 ( 私の計画では、松本薫さんが私の眼前をまさに通過する時点で「エール」を送る予定だったのに )。
ところがどうでしょう・・・私は大変な感激を味わうことが出来たのです。
松本さんは、手を上げて応えてくれました・・・それもなんと振り返ってですよ !!!。
松本さんの、鷹揚な、包容力のある優しさに触れた思いでした。
松本さん、東京オリンピック 頑張って3大会連続のメダルを目指して下さいな 心から応援します !!!。
そしてその少し後、これまた精悍な、馳 浩さんが走って来ました。 ( 馳 議員がエントリーされているとはちっとも知りませんでした。 ) 馳 議員とは力いっぱいタッチを交わすことが出来ました。これも感激。
( 政務のお忙しい中、たいへんご苦労様です )
そして その後、もうひとつ大きな感激を味わったのです。
集団の中から、沿道際のほうに少しコースを変えて一人の女性が走り寄って来ました。
「おじさん ! 来ましたよ !!! 」
彼女は、ひざを少し曲げ 両の手のひらを上に向けて私のタッチをその両手でしっかと受けとめてくれました。
前日の土曜日、朝早く東京から来られたというご婦人に
「明日は ここは金沢マラソンの応援者おもてなしスポット になるんです。だから今 物を片付けてる最中でしてね・・・散らかしてまして・・・」と館内の整然としてない ことの言い訳を申し上げると、
「私 明日 金沢マラソンに出るんですよ・・・」
「じゃぁ この通りを走りますね、精一杯応援しますよ・・・」
と会話したあのときのご婦人でした・・・私を憶えていて下さったとは まぁ 大感激 !!!。
2016年3月12日
金沢に移住します、というお話
今年の1月24日の、当館の坪庭の様子。雪が少なくなった最近ではあるが金沢らしい
北陸新幹線が開業して一年が経過した。海外の方も含めて観光目的の 来沢の方が大幅に増えた。名所旧跡、人気スポットは活況を呈している反面、 雑踏と化し、静寂な城下町の佇まいを少しそこねているような場面にも 出くわす。 でも全体として賑わいがもたらされていることは、その逆の場合と比し良いことである。 問題点は皆が知恵を出し合って直してゆき、街の魅力を継続的に高めて行けばよい。
「金沢は初めてなんですけど いいところですよね」とか「きれいな街で、人が皆親切で・・・」とか 「ホントに好いところ・・・また来たいです」などの褒め言葉をこの一年よく聞いた。 「・・・カナザワ ラブリー・・・ ( Kanazawa lovely ) 」とか「「・・・ very beautiful・・・」などの 外国の方の賛辞もよく耳にする。
この「また来たいですね~」が「金沢に移り住みたいね~」に昂じた(嬉しいことを仰って下さった)方に 本日(3月11日)お会いした。
金沢に移り住むいきさつにはいろいろある。一番多いのは転勤、金沢の大学への入学というパターン。 これらの場合は、いずれはまた去って行かれるのであるが・・・。
転勤で金沢に来られた方の中で印象的な方がいらっしゃる。 昨年4月 金沢に転勤して来られて、当館企画の、歴史・伝統文化の各種講演会に積極的に参加されたJさんという女性。 とても知的でステキでかっこいいJさん。持ち前の好奇心、行動力で、金沢の百万石文化のほぼすべてを吸収・会得された 感がある。いずれはまた転勤で金沢をあとにされるのであろうが、金沢の良さを大いに喧伝してほしい。
もう一人、息子さんが金沢に転勤して来ておられて、年に何度か息子さんを訪ねて来られ金沢を満喫されている、 とってもお話上手なSさん(女性)。 Sさんは、金沢がいたく気に入られて金沢に移り住む計画を立てておられる模様。是非金沢に移り住んでほしい。
次いで、お仕事をリタイアされて生まれ故郷の金沢に戻って来られるパターン。 当館にしばしばおいでになる尾山町のHさん(男性)。リタイア後、東京~神奈川から金沢にユーターンされた。 瀟洒で、知的で、ジェントルマンのHさんは金沢の品位を大いに上げている。
金沢にユーターンすべく計画されていたが、ご家庭の事情でユーターンを断念されたのが東京のSさん(男性)。 それを聞いて私も残念だった。(Sさんは、当ブログの、2014年10月5日の記事にご登場頂いた。とても洒脱で、豪快で それでいて繊細で、得難い人)。
リタイアというわけではないが、神奈川から金沢に来られたMさん(2015年2月5日の記事に「松田橙子」さんという ペンネームでご登場いただいた)。 MさんはWebで金沢の各所の魅力、情緒、を軽快かつ温かさのこもった文章で伝えておられます。
(「松田橙子」で検索してください。トラベルjpナビゲーター・松田 橙子さんのページに行けます。楽しいブログですよ)
MさんもJさんのように行動的で、知的で、かっこいい方。MさんもJさんも私にとって憧れの対象。
転勤ではなく、仕事を求めて来られたのが、和歌山出身の、うら若き、ステキなMさん(女性)。 3年前の秋口に初めて当館に来られて、就職試験(松任の会社)のために来たと伺った。 当時は京都の大学生。その、試験を受けた会社には縁が無かったが、金沢には縁があったのか その年の暮れ近く、また来沢され、その時も就職試験と伺った。 H学院高校の先生の職。翌年春、来館いただいて見事合格と伺って私も嬉しかった。 その年の暮れにも来ていただいて学校での活躍ぶりの一端を伺った。今も頑張っておられることと思う。
さて話は今日の本題に戻ります。 この「また来たいですね~」が「金沢に移り住みたいね~」に昂じたのはA(女性)さん。 埼玉から来られた、これまた若くて、活発で、行動的でかっこいいAさん。 何年か前、友達と21世紀美術館に来て以来、金沢にはまり、今、金沢への移住を決めたと仰っていた。
頂いた名刺には、可愛らしい顔写真入りで「 大好き、金沢。埼玉・東京から、移住することにしました。 」と その決意のほどが述べられている。全くもってワンダフル !!!
Aさんの「金沢人」への仲間入りが待ち遠しい !!!
今年2月26日の当館前のお宅を望む夕方近くの光景。群れをなして舞い落ちる雪だが、淡雪のゆえ春間近の風情を漂わせている。
2015年11月25日
第1回 金沢マラソン 感動のお話
金沢マラソンの応援メガホン(沿道応援MAP付)
久々のブログです。最後にアップしたのは5月28日です。 よって約半年ぶり、というわけです。 この間、当館生活において面白い話は無かったわけでなく(いや、結構あったのですけど)単なる私のナマケ癖の しからしめるところなのです。
以下、久しぶりの感動ストーリー(感動話としては、26年11月14日アップの「津軽のひと」、今年の3月26日アップの 「新幹線が人の温かさを連れてやってきた」以来)です。 では、いつもの「である」調に戻りまして・・・
いよいよ第一回 金沢マラソン当日。 当館は、マラソンの「応援者おもてなしスポット ― ちょっとよるまっし」7会場の1つとなっていた。 ( 主催:金沢マラソン組織委員会、かなざわご近所コラボプロジェクト )。 よって、当館にはマラソンスタート前から多くの応援者が集まっていた。
(応援者おもてなしスポット「ちょっと よるまっし」)のチラシ
午前9時に広坂通りをスタート。兼六園下を通過し橋場町の交差点を左折し尾張町大通りから武蔵を抜け金沢駅東口で折り返して・・・ という具合にコース展開するので、ランナー達は当館前を通る(走り抜ける)ことになっていた。 スタート地点から当館前までは、2Km弱であるから、先頭は当館前を9時6~7分に駆け抜けることになっている。 9時スタート時点では雨足は強かった。当館前の尾張町大通り沿道にはすでに大勢の応援の人たちが詰めかけていた。 雨空を心配する会話がアチコチで囁かれていた。9時7分頃、予想通り先頭のランナーが当館前を通過し、 少し遅れて、いかにもマラソン選手然とした数人が駆け抜けた。
『沿道の人たちは応援メガホン片手に懸命に声援を送った・・・』と型どおりに書いても、 大多数は、めったに応援などしたこともない人達だろうから、応援と言ってもランナーとの間に一定の距離感を保ち、 ちょっと照れくささの感覚もまじえながらのもの、というふうにありきたりには受け取られることだろう。
事実、最初の頃はそういう感はあった、私も含めて・・・ランナーが20~30人走り抜けるまでは・・・。 ところが、応援者たちの様相は変わっていった。否、その後のランナーの人たちが変えていった、と言ったほうが正確だろう。 家族、友人、職場の同僚等々、顔見知りのランナー達に対して投げかけられる暖かい声援・応援、これに対する、いろんなジェスチャーを 混じえての(ランナーからの)応答があちこちで見られ始めた。 それだけではない、顔見知りでもなんでもない応援者とランナーとの間でも、応援者のエールとこれに対するランナーの受け応えが 交わされ始めた。 次第になりふり構わぬ、心底からの応援と変わっていったのだ。
「ガンバレー !!!」、「マイペース マイペース !!!」とか「ファイト !!!」などの声援に対して、 にこっと笑みを浮かべ手を振り応えるランナー達、目と目があっただけで手を振って応えてくれるランナー達。 このころから一挙に声援のボルテージが上がりだした。 私も、最初とは打って変わってあらん限りの、声を振り絞っての応援となっていった。 応援者もランナーも一体となっていった。走り出してからまだ2Km弱の地点なのに、感動があちこちに渦巻いていた。 ランナー達の快走、腹の底からの声援がかもしだす、応援者の心の中に湧き起る快感。雨は次第に上がり始めていった。
とその時。 一人の長身のランナーが私の前を過ぎて数メートルばかり行ってから振り向きざま、 「昨日は、カサ、どうも有り難うございました !!! 」と手を振って走り抜けていった。 瞬時に意味を理解した私は、「こちらこそ~ !!! しっかりガンバレー !!!」と応答した。
前日の14日、明日マラソンに出場する、という人たちが合計で10人くらい来館した。 その日は午後から小雨模様となってきた。当館は「置き傘」スポットになっているので、この日は何人かの来館者に傘を貸した。 その中の、新潟は柏崎から来られた数人の方にも傘を貸した。「明日、私たち金沢マラソンに出るんですよ」 「あっ そうなんですね。この前の通りもコースに入ってます。応援しますよ」と会話したのを瞬時に思い出したのだ。 4人さんがマラソンに出るとのことだった。
前日来館の柏崎からのランナーの方の、走りながらの言葉かけに感激し、私の応援のボルテージはますます上がっていった。 それから30人くらいおいて、今度は深々と目礼しながら手を振って過ぎ行くランナーがいた。この方も傘を貸した柏崎組の中の一人である。 その後、また時間をおいて、集団の中で手を振り「傘、有難うございました」と礼をしながらのランナーが2人(その2人も同時に目の前を走って行ったのではなく、ある程度の距離が離れていた)駆けて行った。そのたびに感動で胸が打ち震えながら私は、声を枯らして「ガンバレー !!! 」を繰り返した。 いずれも前日の、柏崎からの来館者の方々であった。
尾張町通りは、レース序盤の場所であるからまだ余裕があるのだろうが、とはいえ応援の群衆の中で、走りながら私を探せるものなのだろうか? 探し当てたとして礼など言う余裕があるのだろうか? 私がその立場ならそうできたであろうか?
この柏崎の4人さんのとった、4人そろいも揃っての行動は、心底から私をいたく感激・感動させた。 このことは単なる美しいスポーツマンシップのあらわれ、と捉えるべきなのか。 義理堅き性善なる人の心のあらわれ、と捉えるべきなのか。 否々、そんな定型的なものだけでは説明はつかない。それはおそらく、応援というものを介して、ランナー達と応援者達との間に、自然と 泉のごとく湧き出た感動の心が生み出した産物だったのではなかろうか。
金沢マラソン。
ランナー、応援者、一体となって感動を共有できた金沢マラソン、そのコース取りの良さから 城下町金沢を思いっきり堪能できた金沢マラソン、駅西地域の新生金沢の勢いも発信できた金沢マラソン。
来年以降のさらなる発展を願ってやまない。
2015年5月28日
何と タイムリーな はなし
(石野テント様から頂いた(明治期の)看板)
お客様から タイムリーなタイミングで教えられた、不思議な5月22日のはなし。
先日、当館へ来館された福島からの女性のお客様(Kさん)から ご丁重な礼状を本日(22日)頂いた。
たいしたご案内もしてあげてないのに、心のこもった礼状のハガキを頂き、感激もひとしお。 ただ そのハガキの差出人欄の「 福島市下野寺 字 醴 」の最後の「醴 」という字が何と読むのか、とちょっと考え込んだ。
(Kさんから頂いた礼状のハガキ(おもて))
ここで想い出すのは、約1年半ほど前のこと。当館の(昔のメガネ屋さん時代の、商品ショーウインドウのあった)壁に貼り付けてある、明治21年当時の 尾張町大通り商店の銅版画(エッチング : 出展…石川県商工便覧 )の製作元の話。
関西からとおぼしき数名のご婦人たちに、この銅版画の説明をしていて、ついでにこれらの版画の製作元は、大阪は堺の「龍泉堂」です、と述べた。 ここで私は更に余計なことに、堺区(明治21年当時は堺区)熊野町(クマノチョウ)の業者ですと説明した。 そしたら このお客さんの一人が、「それ 違います…『ゆやちょう』と読みますんや…」と答えられた。 そして「私ら、堺から来たんです」…とも。なるほどよく知ってるはずである。
まさにタイムリーな訂正を頂いたわけである。
(明治21年の石川県商工便覧の製造元)
読みといえば、当館には一昨年、尾張町の老舗「石野テント」様から頂いた上掲の看板がある。 この看板(明治期のものと思われる)の読みをお客様からよく尋ねられる。 「かみかっぱ(紙合羽)できどころ…と書いてあります」と答えると、「へぇ~カッパというのは日本語だったのですか」 とよく問い返される。
「…ええ そうなんです…」といつも自信無げに答えていた。
(江戸時代から「合羽」の文字は用いられてはいた)
今日の午前中も関東からのお客さんと 同様のやり取りをしたばかり。
ところが、図らずもこのような対応は改めなければならなくなった。というよりホントのことが分かったので良かったというべきか。
この日、午後、外国人の親娘二人連れが来館された。(お母さんと娘さんの二人連れ。コスタリカから来られた。)
二人はスペイン語らしき言葉を話されていた。私が話しかけると、娘さんのほうが日本語で答えてくれた。 日本語は9か月勉強したとのことだが、そのわりには上手だった。 この二人に当館の建物の来歴や、備品の話を(日本語と英語のチャンポンで)していて、この看板に行き当たった。 私の説明で納得してくれたようで、この娘さん、連れのお母さんにこの看板についてスペイン語で説明しだした。
聞き耳を立てているとときおり「… … カパ… …カパ… …」というのが聞こえてくる。 「この… カパ… …カパというのは、この『合羽』のことを言ってるのですか??」と英語、日本語まじりでその娘さんに聞いてみた。 やはり『合羽』のことを『カパ』と言ってたようだ。その娘さんと話していて『カパ』すなわち『CAPA』はスペイン語でも合羽を意味するが ポルトガル語の『CAPA』が雨具のカッパを意味するものとして江戸時代に入ってきて、『合羽』の字をあてがわれた、という 結論に落ち着いた。
まぁ! 何とタイムリーなはなし!!!。
その日はことさらお客さんに教えられる機会を天が私に与え給うたようだ……閉館間際の4時半過ぎ 歩きずくめで大変疲れたから休憩させて下さいと、一人のご婦人が入ってきた。 いろいろお話して福島からのお客さんと分かった。(仮にこのお客さんをBさんとする)。 福島から一昨日来られたお客さんからの礼状を今日もらったばかりだったので、妙に福島づいた私は、 (冒頭述べたKさんから頂いた)その礼状をお見せしようと思って、それをBさんの 眼前に差し出そうとする刹那、『ああ!そうだ この人ならKさん差出しの住所”醴”は分かるかも』、と思った。
Bさん そのハガキの差出人住所を見て、「あらぁ 何とまぁ~ 私も福島市の下野寺ですよ、この醴(あまざけ)は私のとこから 近いんですよ、何と奇遇なことで…」と仰った。(Bさんは、福島市下野寺 字 佐太郎内 の方)。 かくてこの「醴」なる地名は、「あまざけ」と判明した。
まぁ! 何とタイムリーなはなし!!!。
それにもまして「福島市 下野寺」のBさんが、「福島市 下野寺」のKさんの礼状到着の直後に来られるとは、何という奇遇。
タイムリーな出来事と不思議な奇遇に満ちた一日。
2015年4月3日
音楽の女神達の降臨した日
町民文化館のホールにデンと鎮座している昭和中期頃のピアノ
2015年3月27日(金)晴れ。
当老舗交流館は尾張町商店街振興組合がその運営を金沢市から委託されている。 お隣の町民文化館も同様である(但し、こちらのほうは委託元は石川県)。
お互いにお客様を誘導し合っている。 そんなことで町民文化館の係りの方とは行き来している。
そしてこの日、この日の町民文化館の係りのFさんが慌てて私のところへやって来た。 「たった今、民謡の大変うまい子が来て 歌って行ったよ。宮崎から来た大学生の女の子」 宮崎から来た女子大生二人連れの一人が大変民謡がうまく、その子は中学生のとき全日本で優勝した子で 今しがた町民文化館で歌って行った、とのこと。
私は「何でFさん、言ってくれなかったんですか。言ってくれたら聞きに行ったのに」と残念がった。 「あの子たちはこれからお昼を済ませて、その後成巽閣へ行く。だからあの子たちに成巽閣の無料招待券でもあげれば また歌ってくれるかもしれないよ。あんた成巽閣の無料招待券持ってるだろ」Fさんがそう言うので、私は手持ちの成巽閣の無料招待券をFさんに託した。 女子大生二人は近江町にお寿司を食べに行ったようなので、無料招待券を彼女たちに渡すべくFさんはあてずっぽうに近江町に向かった。
そしてFさん、奇跡的ににも女子大生二人と出くわし、無料招待券を渡せたのであった。 それから約30分後、再びFさん慌ててやって来て、「今、あの子たち戻ってきたよ。また歌ってくれるって」。 私は急いで町民文化館に飛び込んだ。 そこに二人の女子大生がいて、そのうちの一人の子が歌ってくれた。(この人はKさん。Kさんは今 大阪の大学に通ってるとのこと)。 「緊張します。でもこうやって真剣に聴いて下さるのは嬉しいです」といってホールにあるピアノの前で歌ってくれた。 聴衆は、私とFさんと、ご来館中のお客さん一人と、この歌姫のお友達の計4人であった。 唄は宮崎の「正調刈干切唄」。 彼女は堂々と歌い上げた。力強い、そして豊かな声量、柔らかく、美しく、艶やかな声、若さを横溢させる歌声、乙女の初々しさを帯びた歌声、 生命のほとばしりを感じさせる伸びやかな歌声、それらの諸要素が渾然一体となって、哀調を帯びたメロディーに乗って私の心にずしんと届いてきた。
何とも言えない、至福に満ちたひとときであった。 お友達とその歌姫は、丁寧に礼をいって町民文化館をあとにした。
この3月27日は金曜日であった。天気は良し。通りは今までの平日では考えられないほどの賑わいであった。 新幹線が金沢に着いてから2週間目。金沢は確実に変わっていた。
そんな通りの様子を眺めながら、こんなに人が多いのだから、ひょっとしたらBS-TBSの「日本名曲アルバム」に出ている人たちでも 尋ねてこないかなぁ、などど愚にもつかぬことを想像した。全く根も葉もないことを、さっきの音楽つながりから考えたのである。 ( BS-TBSの「日本名曲アルバム」とは、毎週火曜日の午後7時から1時間の音楽番組。各時代それぞれの、良い曲(ジャンルは問わない)を 音楽大学、一般の大学、高校、あるいは民間のコーラスグループが、美しいハーモニーで演奏する番組である。 私は、音楽一般が好きだが、殊にコーラスが好きで、それも難解なものよりも、ポピュラーな楽曲を披露するこの番組が大好きである。 このブログを覗かれた方、一度はこの番組 見てください。珠玉の美声集ですよ )
お気に入りのコーラスグループは数々あり、中でも国立音大のOB、OGで構成する「CHOR STELLA(コールステッラ)」と フェリス女学院大学の現役生・OGで構成する「フェリス・フラウエンコーア」が私の好きなグループのTop Twoである。 ( どちらも大変な実力の持ち主たちであり、特にCHOR STELLA(コールステッラ)にはソリストとして活躍している人も多い。 そしてどちらも女性陣は美人揃い。フェリス・フラウエンコーアは女声のみ )。
この人通り、雑踏とでもいえるほどの人の多さ、こんなに多ければ「日本名曲アルバム」出演者とまで言わなくとも、彼らの知り合いの一人でも 尋ねてきてくれそうな気配である。そういう雰囲気であるが、そのような関係の人が通ったとして町民文化館あるいはここへ来るとは限らない。 全く、期待可能性のない空想、否、夢想であった。
と、そのとき隣のFさんが音楽好きな私の趣向を見越して、「今 東京の音大 出た女性が二人来ているよ」と声を掛けに来てくれた。 その時 私は「キタ~っ」と思った。でも一瞬後、それだけでその人たちが「日本名曲アルバム」につながりがあるとは限らない、 否、殆ど無関係であろう、私は自分の甘い期待を戒めた。 町民文化館でその二人の方に話しして、当館に誘導した。「どちらからいらっしゃいましたか」「東京です」 それは分かっている、私はドキドキしながら先を急いだ。「さっき、町民文化館のかたに聞いたらお二人とも音大ご出身ときいたのですが… どちらの音大を出られたのですか」緊張で喉の渇きを覚えながら私は訊いた。 「国立音大です」と二人のうちの一人が応えた。その時点で私は歓喜のあまり少しめまいを覚えた。次に専攻を尋ねた。ピアノ科とのことであった。 「声楽科」を期待してた私は、内心、天はそこまで配剤してくれないよな、と思った。(お二人はKさんとSさん)。 でも気を取り直して、訊いてみた。「 国立音大のOB、OGでやっている「CHOR STELLA(コールステッラ)というグループが出てる BS-TBSの「日本名曲アルバム」という番組があるんですけどご存知ですか」。
「よくご存知ですね。私は勿論知っていますよ!!!」とお二人のうちのKさんが答えてくれた。 そして「CHOR STELLAの何人かも知っていますよ」とも答えてくれた。 喜び勇んで私は畳み掛けるように、私のひいきの、何人かのメンバーの名前をあげてみた。 「そうですね、藤原 唯( Fujiwara Yui )さんとか 吉田 望弥( Yoshida Nozomi )さんは同期だからよく知ってますよ。 で 私、藤原 唯さんの歌(ソロだと思われる)の伴奏もしたことありますよ 」 どちらも私の大好きなシンガー達である。そして 私の目の前の、このKさんはその藤原さんと協演してたのだ…こんな人に会えるなんて なんという僥倖…!!!。 Kさんを通してCHOR STELLAの片りんに触れられたような気がして無上の至福を感じ、またこのKさん、Sさんお二人が 光り輝いて見えた。
( この藤原 唯さんの歌声をYouTubeで見れ(聴け)ます。「 chor stella 庭の千草 YouTube 」で検索してください。 藤原さんが、バックに chor stella のメンバー(向かって左から、箕浦さん、山田さん、宮地さん)を従えて、「庭の千草」を歌唱するのが 聴けます。素晴らしい歌声に魅了されること請け合いですよ )
何ということであろう!! 先ほど尾張町大通りの雑踏を眺めながら夢想していたことが現実となったのだ。
昨年の10月24日付けのブログで書いた「念ずれば現る」みたいな感じに。
宮崎のKさん、東京のKさん Sさん、音楽の女神の相次いでの降臨となった記念すべき2015年3月27日。
2015年3月26日
新幹線が人の温かさを連れてやってきた・・・新幹線が人の真心を連れてやってきた
金沢の街のあちこちに掲示された、新幹線開業を謳うキャッチコピー
3月21日(土)の 大変感激した出来事。
この日は、昨年9月から行っている、当館の催事企画・尾張町商店街 歴史講演会の最終回であった。 屋敷先生の講義の始まる少し前、2日前に来館された、とってもお若い、まだ恋人同士のような「F」さんご夫婦が再び来館された。
「金沢の人はとっても親切で温かくて、街もきれいだし 食べ物も美味しいし…金沢がとっても好きになりました。 また来たいと思います。今から帰りますが、とっても楽しい旅行でした」と当館に挨拶に来られたのである。
このFさんご夫妻というのは、茨城は土浦から来られた若い方で、初めは「学生さんですか??」と私が尋ねたほどであった。 ( ご夫妻と聞いたわけではない。お二人連名でのメールを頂いたので ご夫妻と判断した次第。よってこのブログは、この前提に立って 進めています。)
ご主人は、物静かで、礼儀正しく誠実そうなかた。一方 奥さんのほうは、とっても明るく気さくで、快活なかた。 どちらも とっても感じの良いかた。
金沢のことをひとしきり褒めてくださり、また私には謝意を述べて帰路につかれた。 たいしたお話も差し上げてないのに、丁寧にお礼を言いに来られたのである。
旅の途中、再びお礼に来館されるということは滅多にないことで、かつて当ブログで書いた「青森の女子医学生」のかたの例など わずかしかない。私は大変感激した。心に何とも言えない温かみをおぼえた。
「新幹線が春を連れてやってくる」。「新幹線はホントに春を連れてやってきた」。そして「新幹線は人の温かさをつれてやってきた」と心からそう思った。
お昼を挟んで、屋敷先生の歴史講演会の終盤の頃、満員の館内に一人の若い男性が入って来られた。満員で座るとこもなく 青年はずっと立っていた。当歴史講演会は殆どが年配の人ばかりで彼のような青年は滅多に参加したことはない。何か場違いのような空気をまとっていた。 その若者は凛々しくも真剣に屋敷先生の説明に耳を傾けているようであった。やはり先生の講演を聞きに来たのかな、と思った。 どこかで見たことのある顔だが、にわかに憶い出せなかった。 20~30分ほどして歴史講演会は終了した。
そのときその青年はつかつかと私のほうに歩み寄って来て、「この間はどうも有難うございました。たいへん楽しい旅行となりました。」 「あっ 浅野高校の方ですね」そのタイミングでようやく彼のことを憶い出した。そうだ あの彼(Sクン)だったのだ。 これも2日前のことである。大学生とおぼしき青年が二人尋ねてきた。地図で茶屋街方面の話をしているとき、そのうちの一人が、 「あっ、私の高校と同じ名前だ」と浅野川を指さした。「浅野高校ですね」すかさず私は反応した。 かつて私の所属していた会社の同期にMさんという東京大学工学部大学院卒の人がいて、その人が神奈川県の名門・浅野高校卒だったので私は知っていたのだ。 頭脳明瞭明晰、謙虚、誠実な人だったので私はそのMさんを大いに尊敬していたものだ。 その話をしてからしばらく話が弾んだ。お二人とも早大生とのことだった。
「この間は、就活中みたいなことを話しましたが、実は就職が決まっていてこの春から働きます。ここへも赴任するかもしれません」 各都道府県どこも転勤がありますので、というようなことを彼は言った。 「全国に組織があるなんて、国家公務員か何かですか」 「ええ、そんなようなもので…えっと…NHKです…」 「アナウンサーですか」と私は問い返した。 「いや 記者です」とSクン。 記者と聞いて私は、 NHKニュースウオッチ9 のキャスター大越健介氏を憶い出した。 (現在 大越さんについては、NHKニュースウオッチ9 降板が取りざたされている。魂の投球で東大野球部のマウンドを支えた彼を リアルに知る私としては、彼のニュースキャスターとしてのコメントにも真摯な魂を感ずる。いや この稿ではこの件の話題は避けよう。)
昭和50年代中盤から後半にかけて、東大野球部のエースとして活躍した大越さんのことである。 東京時代のその頃の私は、暇さえあれば神宮球場に日参していて大越さんの活躍は目のあたりにしていた。 今は温厚、柔和な表情になられたがその当時は(確か口髭を蓄え)野武士然としたツラ構えで魂の投球をしていて、弱体東大をしばしば勝利に 導いていた。その大越氏のイメージがダブったのだ。甘いマスクのSクンと、東大時代の野武士の大越さんとは風貌こそ違え、何か共通する 気魄のあることを私は見て取った。
「本当にどうもお世話になりました。どうしてもお礼が言いたくてここに立ち寄りました」そう述べてSクンは立ち去って行った。 私に礼を言うために彼はいつ終わるとも知らない講演会が終わるのを立ったまま(30分も)待っていたのか……私は感謝の意に心が満たされていた。
Sクンには立派な記者になって欲しい、でもイケメンだからアナウンサーにもなって欲しいと勝手なことを思った。
こうして3月21日は暮れた。Fさんご夫妻の再訪、Sクンの再訪、いずれも謝意を述べに来るための再訪、 そんな感激の出来事が2つも重なったこの日……。
「新幹線が春を連れてやってくる」どころではない「新幹線は人の温かさを連れてやってきた」「新幹線は人の真心を連れてやってきた」 。
2015年2月5日
「マ ツ ダ」の神の重なった日
LRTに関する新聞記事
1月28日の午後のこと。 今から述べることは、この日の午後の、時系列順の出来事を忠実に再現している。
久しぶりに「松田橙子」さんの旅行・観光ガイドのブログをネット拝見していて、いつも素敵な文章を書いてらっしゃるなぁ と感心していたら
(「松田橙子」さんとは、昨年当館に三度もお越しいただいたインテリジェンスあふれる美人さん。 その方ののペンネーム(Webネーム)が「松田橙子」さん。もっとも彼女の真骨頂は、Webで掲載されている小説にあります。 もし機会と橙子さんの許可があったら、じっくりと彼女のこと 語らせていただきたいと思っています。)
関東からのお客さんとおぼしき女性が入って来られて「松田文華堂」さんは開いてないのですか、と尋ねられた。
(「松田文華堂」さんは尾張町にある老舗で、藩政期からの創業の 筆・紙・墨・硯のお店であるが今は商売は閉じられている。 昨年春から、箏曲家の釣谷真弓さん(芸名:釣谷雅楽房(つりや うたふさ)さん)のコレクションであるアジアの民族楽器館 (約80点の、琴類(きんるい)、箏類(そうるい)、三味線、胡弓( こきゅう)、管楽器、打楽器を展示)となっている。)
アジア民族楽器館(松田文華堂)
このアジア民族楽器館は、あいにく火曜日と金曜日(午後のみ)しか開いてないので、その方にはその旨告げてまたの機会をお願いした。
当館のガラス戸越しに、マツダ・デミオが立て続けに2台走るのが見え、さっきもデミオ見たよなぁ~と思いつつ
このとき私はすでに、この日の「マ ツ ダ」つながりの奇縁性を感じていた。
その後、親娘の二人づれが入って来られた。お父さんは金沢の人、娘さんは東京から帰省中とのことだった。
当館に掲示してある写真の、昔日の尾張町界隈の路面電車風景がもとで、しばしこのお二人と電車談義、そして街づくり談義となった。
そのとき、長身の男性が入って来られて 少しお話しを伺ったところ、今 21世紀美術館で行っている「3.11以後の建築」という企画展の用件で 東京から来ており、でも出身はもともと金沢だ、というようなことをおっしゃった。
このとき この日の「マ ツ ダ」つながりが私をして、ある記憶を呼び起こさせた。それは1月7日の新聞(北陸中日)の記事に関すること。
その記事は、「築こう 近未来の金沢」と題するもので、「LRTが城下周遊」「尾張町の木造再生」がサブタイトルに付けられており 興味を惹いたので切り抜いてとっておいていた。 尾張町を木の温もりが感じられる「木質都市」にし・・・金沢城を囲むようにLRT(次世代型路面電車)で結ぶ・・・という 「金沢都市再編計画2014」なる提案に関する記事。今 21世紀美術館で行っている「3.11以後の建築」という企画 の中での提案であり、金沢にかかわる建築家、建築デザイン・設計の研究者、の3人の方々が練り上げた提案。 その お3人さんの中にいた一番若い「松田さん」という方を憶い出したのだ。
( 松田さんは、東京大学 先端科学技術研究センターの助教 の方 )
私は脱兎のごとく部屋に戻り、その切り抜き記事を持ってきて、この「松田さん」というのはお客さんのことですか、と尋ねると 「そうです」と東京からのお客さん。
( それと、もともとこの松田さんがいらっしゃらなくても、市電復活の機運があることを示すために、先の二人のお客さんにこの記事はお見せするつもりだった。何という偶然・・・機縁・・・奇縁・・・。 )
それからの10数分間、先のお客さん二人、松田さん、そして私とでLRTの実現可能性云々の話で熱っぽく盛り上がった。
採算性の問題、市民にとっての利便性の問題、既存の石川総線・浅野川線のありかたの問題、地下鉄あるいはBRT等他のソリューション方法など との比較、これらが短い時間ではあるが話の俎上に載った。 採算性の話が佳境に差し掛かっていたとき、たまに来られる金石のお客さんが ご自分の作品の展示会案内のDMを持って来られた。(この方は、いろんな写真 ― 風景写真はもとより、芸妓さん、殊に京都の 芸妓、舞妓さんの写真をずっと撮られている。私も何度か見せて頂いていて その耽美な画に感銘を受けたこともしばしば。その京都の芸妓・舞妓 さんの写真展の個展を開かれるとのこと。)
館内がLRTの話で盛り上がっていたので、水を差すといけないと思い、私とその金石のお客さんは外で話した。 (その後すぐに館内の3人は帰られたので、LRT談義の最後のほうには加われなかった。)
2月7日~2月28日開催の、「松田 溶」さんの個展の案内( 於 「写真のピーパル」津幡町横浜ほ32-4 )
そして皆さん、驚かれてはいけません、事実は小説よりも奇なり でその金石からのお客さんも「松田さん」なのであります。
1984年、自動車会社である「東洋工業」は「マツダ(MAZDA)」に社名変更。 このマツダとは、ペルシャにて紀元前6世紀に成立の「ゾロアスター教」の最高神 アフラ・マズダー(Ahura Mazda)に由来する。 (勿論、創業者の松田さんのマツダがベースにはあるのだが)
そのアフラ・マズダー(Ahura Mazda)とは「叡智」「理性」「調和」の神である。
当ブログ中、立て続けに現れた それぞれの「松田」さんに、何か神々しいものを憶えた1日であった。
2014年12月5日
二人の大先達
Yさんが持ってこられた東京の新聞
少子高齢化と言われて久しい。そしてこの言葉からは殆どネガティブな印象しか伝わって来ない感がある。 確かに、少子化は社会の、未来の担い手不足という観点からは好ましくないことは言うまでもない。 では、高齢化という現象はNGなのか。
今回、ご登場願うお二人によって、高齢化ということのネガティブな面は否定される。
当館に、80歳のYさんと、70歳少々のNさんが常連さん的に よく来館される。 (70歳少々は、いまや高齢のうちの入らないのかもしれないが…。)
Yさんは当館のご近所の方である。今年の5月頃から来館されるようになった。 Yさんは過去のことはあまり話したがらないが、それでも詮索好きな私の話に応答してくださり 、石川県生まれ・育ちではあるが、ハイカラにも東京の高校に進まれ、大学も東京の名門をご卒業となり それからは、東京の新聞社に身を投じご活躍されたようである。 よって、政治・経済の該博な知識をお持ちで、確固たるご自分の意見を持っておられる。 石川県にはいつ戻って来られたかは知らない。
Yさんは、あまたの名所旧跡を巡り、また数々の市民大学的講座・勉強会に出席されている。 また、ほうぼうの山々に遊ぶ登山家でもある。従って、すこぶる健脚の持ち主である。 学生時代は、グライダー部に所属し、山どころか空までも漫歩された。
このYさんに敬服すべき点がもう一つある。彼は、80歳にしてパソコン教室に通い始めた。 もう半年以上となる。パソコンによる文書作成は殆どマスターされたそうな。 40の手習いどころの騒ぎではない。
Yさんは、直截にはおっしゃらないが、金沢というものをこよなく愛しているように見受けられる。 金沢をより魅力あらしめんがために、ときおり苦言も呈せられる。 たとえば、金沢という町は、歩くに不便なところが多いとおっしゃる。 1例をあげれば、1本の道路を横断するのに、横断歩道を3ヶ所渡らなければならないところがある。 金沢が新幹線到来を機に、ますます観光都市として飛躍するには、車のスムースな通行もさることながら 歩行者に対し快適な歩行環境を提供すべきだ、とおっしゃる。 金沢は、名所旧跡、遺構、文化施設が割とコンパクトな範囲にまとまって 点在していて、歩いてまわるに恰好な町のわりに、歩行者に優しい町ではない、と指摘される。 まことにごもっともな話である。 そんなYさんから先日、(上の写真)東京の新聞をいただいた。かつて在籍していた新聞社の先輩が 「お前の住んでいる町だろう」と言って送ってくれたそうだ。 Yさんはこれを勇んで持ってこられた。私を喜ばせようと思われたのだろう。ありがたく拝読させて頂いた。 寿屋の店主・山県さんの話を基軸とした尾張町界隈の頑張りを、東京の人に伝える記事であった。
一方のNさんも健脚の持ち主である。健康のために毎日、文化施設めぐりをされている。 当館にもそのついでに寄っていただいてもう1年以上となる。 こちらも 元 新聞社勤務の言論人である。よって天下国家には一家言をお持ちなのは勿論だが、 ともすれば話が生臭くなることもあるので、この手の話はあまりされない。
Nさんは、金沢検定中級をお持ちで、上級にトライされている勉強家である。よってその関連の 話は、最初の頃よくお聞きしていた。
だが最近の話題は専ら「遠藤」である。あの大相撲の遠藤である。 Nさんは元マスコミ人らしくスポーツも全般に詳しい。 Nさんは仕事の関係で、金沢学院東高校時代から遠藤をよく知っていた。 また東高校相撲部の監督をしていた大沢さんとも懇意である。 私も遠藤を高校時代から応援してたのでNさんとは話が合った。 Nさんは遠藤関が秋場所大きく負け越しした時は、親のように嘆き、落胆していた。 また2勝5敗から破竹の8連勝をしたときは、これまた親のように喜びをかみしめていた。 ただ私とNさんが普通のファンと違うのは、遠藤談義がちょっとした玄人筋な話に展開する点にある(自分でいうのも変だが…)。 ただ喜びあるいは嘆くのでなく、負けた時は負けた時の、勝ったときは勝った時の取り口を分析する。 秋場所は、相手の重圧に負けまいとしての立ち合いの低さ、攻めの早すぎること、取る廻しの位置のマズサが 敗因と断じ、九州場所後半の8連勝は立ち合いのほどよい高さ、当たる角度の良さ、立つときのタイミング(相手よりコンマ何秒か遅らせて立ち 、相手の前進する勢力をちょっと上向きに殺いで当たっている)の良さ、等々、が勝因と分析し 名解説者・舞の海さんも真っ青の話をしているのである。 この分析結果からもうかがい知れる通り、遠藤関がただの人気力士ではなく、相当な理論家であることがよ~く分かる。
Nさんに見せてもらった平成10年秋場所の番付表(元 小結 濱ノ嶋が大沢さんに宛てて送った番付表)
YさんNさん、ともに言論人であり、健脚の持ち主であり、そして表向き あまり強調されていないが 愛郷家である。 ご高齢であるが、向学心に富み、いつも気分は若く、そしてその豊富な経験・知識から含蓄のある話をされる。
一般的に言う、高齢ということで語られるネガティブな要素は、このお二人に関しては全く無縁なのだ。
2014年11月21日
親分ことM先生
当館備付の、英語パンフレット類(金沢の歴史、工芸、芸能等の紹介)。M先生とは関係ありませんけど。
M先生が当館に来館されてから1年以上が経つ。 隣の町民文化館によく来館されていて、ここ(老舗交流館)へも足を運んで頂いてからのお付き合いとなる。 先生といってもだいぶん前にリタイアされていて、今の御年は80くらいである。 したがって「もと」先生ということになる。元 中学の英語の先生である。 というと先生然とした風貌、たたずまいを想像されるだろうが、そうではない。 先年亡くなった俳優の三国連太郎似といえば分ってもらえるだろうか。三国連太郎をさらにコワモテにした感じである。
初めてお会いした時は、そのコワモテの表情ゆえ 私はその世界の人、いわゆる「任侠の人」を想像した。 風貌だけではなく話し方も「任侠の人」であった。 いろいろとお話しさせて頂いて元 教師の方とわかった。元 中学の校長先生である。 (教職にあられた方であるが、風貌どおり大変な親分肌の人であることに変わりはない。)
日本の学校での、従来の英語教育はreading、writingが中心で オーラル英語ではなかったので、昔の英語の先生は、英会話がそれほど得意とは限らない。 しかし、ことM先生に関しては、英語の達人である。それは先生のヨーロッパ、アメリカなどでの 数々の武勇伝からうかがい知れた。(外人とやりとりするには英語の達人となってないとできません。)
先生には海外での留学経験があったとは聞いていない。 先生がreading, writing はともかく オーラルに関する語学教材が乏しい昔において なぜhearing, speaking に堪能になられたのか ちょっと不思議であった。 その不思議は先日解けた。 先生に改めて語学遍歴を聞くまでもなく、先生の交遊録から疑問は解けた。
昭和20年代の後半の学生時代、先生は在日米軍の将校と大の親友になったそうである。 その将校は日本人を敬遠していたのだが、先生の(他の日本人には持ち合わせていない)誠実さがその将校に 通じたのであった。毎夜、酒を酌み交わし、日本、米国の垣根を取り払って青春を語り、人生を語り、良き友となったのであった。 およそ語学習得の王道は、異国人同士がお互い顔を見合わせ、心から伝えたいことを、言葉のみならず身体全体を使って表現することに あった。 先生はそういった境遇を、(一種の任侠的とも思える)誠実さで獲得したのであろう。 先生の英語がまことに卓抜なのは以上の理由による。
先生はスポーツマンである。今はゴルフ三昧の生活のようであるが、(私の知っている範囲では)空手をおやりになり、若いころは 野球をやっておられた。泉丘高校時代は正遊撃手として活躍された。甲子園出場はならなかったが、親善試合かなにかで 愛知の強豪 享栄商業と対戦したことがある。この時のピッチャーは金田正一である。高校2年夏途中で高校を中退、プロ野球・国鉄に入団し 弱冠17歳ながらいきなりチームのエースとなり、最終は日本プロ野球最高の400勝をあげたあの金田である。 おそらく金田は石川の泉丘相手なので真剣には放らなかっただろう。しかし、M先生の任侠の風貌である。眼光鋭くにらみつけるM先生に対し、 後年、球界天皇と言われた金田ですら恐れをなし、真剣勝負を挑んだことだろう。先生の話では凡退したとのことだが、痛烈なファールの 2~3本くらい打ったに違いない。いや、謙遜しぃの先生のことだから、ヒットくらい打っただろうが、単打では自慢にならないとみえ 私には凡退と言ったのかもしれない。(今の人には分からないだろうが、金田投手というのは、今の160キロ投手の日本ハム 大谷、 あるいは大リーグで活躍するダルビッシュ、田中クラスより速かったしカーブは切れた、そのほどの投手である。)
さぁて、先生の最大の逸話は、ここからが始まりです。 若かりし頃、先生の友人か誰かが先生の写真を映画会社に送ったそうだ。いわゆるニューフェース募集というやつである。 映画会社は東映であった。 なんと先生は決勝まで残ったらしい。決勝までですよ!! そして見事、決勝で散ったらしい。誰が相手ですって???
なんと その相手というのは、先日お亡くなりになった国民的大スター 「高倉 健」さんなのであった。
もし相手が健さんでなかったら今頃 私はM先生のことを、この稿で「元 銀幕のスター Mさん」と紹介してたはずであろう。
2014年11月14日
「津軽」のひと
青森県平川市のNさんの、後日送ってくれた青森の観光パンフレット
当交流館の係員となって1年と半が経過しようとしている。 来館者は地元の人のほうが多いが、施設の性質がら当然のこと「旅人」も多い。 私は、ここ尾張町老舗交流館の常駐管理人だから、この場所に根が生えたように動かない。 したがって遊歩される「旅」のかたとは、動きという点においては全く対照的である。 旅のかたには、当館の由来は勿論のこと、当地の地理、歴史、文化などについて話をさせていただくのが私の使命であるが (…といってまだまだその使命を果たしうるレベルに達してませんが)、 逆に旅のかたから、その来られた方の土地にまつわるお話を聞かせていただく機会も大変多い。 そういった場合、私のほうも「旅人」気分になる。老舗交流館という建物に固着しているこの私が、旅人のお客様の おかげで、心はこの場所から放たれて、いろんな、まだ行ったことのない土地に遊ぶことになることも ままある。動かない私が、動いているお客様の動きとの相対関係により、私も動いている感覚にとらわれる気分になるのである。
10月の初めころの早朝、青森は平川市から一人の男性の方(Nさん)が来られた。もうリタイアされたとかで、アチコチを旅されている、 いわば旅の達人といったかたであった。このとき、青森の観光、風土、方言などいろいろとお伺いした。 (方言は、地域が変わると同じ青森県人でも分からないほど、さまざまなヴァリエーションがあるとのこと。) 「青森は、昼と朝晩の気温の差が激しいんですよ…」と、1日のうちの寒暖の差の激しさが、青森のリンゴを美味しくさせている のだと説明された。また、金沢の街並みの美しさ、景勝地の美しさをほめられ、私を心地よくさせる一方、青森の 観光のPRにも熱弁をふるわれた。さながら青森の観光大使のような方であった。 ところで私は館内に備えてある蓄音機(電蓄)でいつもBGMを流している。(レコードのドーナッツ盤は勿論かけられるのだが、 CD装置も付いており、普段は操作の手軽なCDをかけている。)ジャンルは、オールディーズのポップスや、ジャズっぽいもの がメインであるが、この夏は館内を音で涼しげにしようと、「奥入瀬渓流」と「四万十川」のせせらぎ音を収録したCDをかけていた。 ようやく涼しくなって、「奥入瀬渓流」のCDは二、三日前に片づけてしまっていた。ところがこの日は暑さが少しぶり返していた。 そんな折りのNさんのご来館は、館内を再び青森の「奥入瀬渓流」の清涼感で満たした…青森の「自然」に誇りを持つNさんの言葉で。
青森からのお客さんでもう一人、私の心に強く残っている人がいる。 今年の春先のこと、まだ肌寒い3月末頃だったと記憶している。閉館間際の薄暗くなってきた夕暮れ時、 一人旅とおぼしき若い女性が入ってこられた。寒さのためか頬が少し赤らんでいて、健康そうなリンゴのイメージがした。 青森から来られたとのこと(リンゴのイメージに妙な符牒を感じた)。当館の建物に興味が惹かれて入った、とのこと。 (ここでは仮にBさんとしておく)Bさんは春休みを利用してあちこち回っていて、今日、明日と金沢を見て歩く、とのこと。 金沢の家の多くが、黒い屋根瓦に覆われていることに興味を示されて「青森はトタン屋根が多いんですよ…」と話された。 明日行かれる金沢城公園と兼六園との間の「百閒堀通り」は、昔あそこは水を湛えた堀だったのですよと、その由来を話すと 「じゃぁ明日、じっくりと見てきます」と興味を示された。 旧いもの、歴史などに該博な知識がありそうなので「学生さんですか、文学部ですか」と問うと「いえ、医学部です。この春から 三年になります」「では弘前大学医学部ですか?」「はいそうです。でもよく分かりましたね」。 そこからは専ら、日々の、医学部での勉学状況、そしてその大変さを伺った。 ( 私の息子も医学部生で、しかもBさんと同学年なので、勉学の大変さは共感できた。)
「明日、時間があったらまたお話がしたいですね」と勝手な要望をすると「はい !」と答えてBさん、宿に 向かわれた。 翌日、私はBさんの再訪を少し期待していたが、「また来てくださいね」と要望してまた来てくれた人は地元の人でも数少ない。 ましてや彼女は旅行者なので、このような甘い期待はしていけない、と自らを戒めた。 夕方近くになっても彼女は来ないふうだった。先の戒めにもかかわらず私は、太宰 治の「走れメロス」に出てくる、友人メロスの帰還を一度は疑った (友人 メロスの身代わり人質の)セリヌンティウスの心境に少しなっていた。 氷雨も降り出し、寒さも募ってきたそのとき、Bさんが傘もささず、濡れた髪もものかわ当館に入って来られた。 「…お話うかがっていたので…百閒堀、大変感慨深かったです」と述べて下さった。 やっぱり来てくれたんだ、とメロスの帰還を信じ続けたセリヌンティウスの心境に戻った。 そのとき、ふと思った。
「ああ そういえば太宰 治も津軽の人だったな~」と。
時間が無いのでこれでおいとまします…とBさんは次の目的地へと向かって行った。 そのとき私は、充分 心が満たされていた。何となく爽やかな、そして甘酸っぱい「青りんご」の風味のようなものにとらえられて 彼女を見送った。
「どうか素晴らしい女医さんになられるように」の想いを込めて。