2024年4月26日
4月21日 馳知事、プロレス歴史展を激励訪問
戦後、敗戦によって打ちひしがれていた日本国民を
勇気、元気づけてくれた力道山が、能登半島大地震の
震災対応の激務に日々取り組まれている馳知事を経由して、
天国から被災地の人々に対し、再び勇気、元気を届けてもらえぬか、
との趣旨で始まった当プロレス歴史展。
会期もあと残すところ1か月となりましたが、
本日(4月21日)馳知事が、お忙しいスケジュールの合間を
縫って当展をご覧になりに来館されました。
以下の画像はその時の様子です。
( 今まで、当展をご覧になられた方々の中には、被災され、
能登から金沢に避難されている方々も何名かおられ、
力道山の在りし日の勇姿に接し、元気づけられた、との感想を頂いたことも
ありました。)
そして本日、馳知事にもご来館頂き、感謝しきりです。
馳知事におかれましては、当展の趣旨に賛同され
主催者である我々スタッフを激励に来られたもの、と感じております。
心から御礼申し上げます。
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2024年3月16日
石田さん、「近江町市場300年史」を総ナビゲート
令和3年4月に、「近江町市場300年史」が刊行されました。
近江町市場300年の成り立ち、今日までの歩み、に関する様々な
歴史的事実、教訓、エピソード等をふんだんに盛り込んだ上下2段組の
約400ページになんなんとする、大著です。当書籍は、江戸時代までを
歴史家の宇佐美 孝 先生(刊行当時、加能地域史研究会参与、
金沢市歴史遺産調査研究室顧問)、そして明治以降令和の今日までを
石田 順一さん(刊行当時 金沢中央信用組合参与であり
近江町300年史編集委員長)が担当されました。
石田さんには過去 当歴史伝統文化講演会にて3度講演をして
頂いています。「近江町の不思議」と題して、その1~その3 と
3つのシリーズにわたって近江町を深堀りされた講演でした。
それらの講演は、交流館係員の筆者からすれば、「近江町市場300年史」の
完成に向けての、各道程ごとの括りとしての披露、であった感があります。
そして本日(令和6年3月16日)、今までの3回の講演内容の集大成をなす
「近江町市場300年史」の総覧ともいうべき講演の運びとなったわけであります。
演題は「”近江町市場300年史” ここが見どころ読みどころ」です。
大部な書籍の「ナビゲータ」といったところでしょうか。
資料として、詳細な項目建てをしたレジュメと、ポイント ポイントでの
プロジェクター画像、近江町市場商店街Map、を用いられ、この大部の本書籍を
さながら、知らぬ間にさ~っと通読させてもらった感がありました。
これから読まれる方には、たいへん助けになったことだと思います。
300年史の編纂過程で、協力者(金澤ふるさと倶楽部 代表)伊藤正宏 氏の執念の
捜索過程で見つかったのが近江町PRソングの一つの「市場音頭」の音源。
当講演においては、これをCDに仕立て上げたものを演奏して
石田さんは、会場の場の雰囲気を盛り上げました。
歌詞は4番まであって、それぞれの最後のくだりは「自慢だぁ~い」で締める、
たいへん粋な、そして威勢の良い歌なのです。新鮮な食材を提供する近江町に
ぴったりの歌でした。
この「近江町市場三百年史」は書店でも取り寄せ出来ますし、
近江町市場商店街振興組合には在庫もある、とのことです。
ご興味のある方は是非どうぞ。
(「近江町市場三百年史」 発行:近江町市場商店街振興組合 発売:北國新聞社
定価:本体 3,000 円+税 )
ところで、本日「近江町市場300年史」の読みどころ、事実の発掘に腐心した箇所、等を
熱く語られた石田さんの今後の行く末が気になるところです。
今、老舗交流館では、この石田さん企画の、「プロレス歴史展」を5月22日まで
行っています。( 石田さんには「日本のプロレス史研究家」としての別の顔があります。)
そして、この流れで、来る5月18日(土)13:30 から
「 伝説と謎に包まれた ”戦後最大のスーパーヒーロー” 力道山 」の
講演を予定しています。
どうやら、石田さんの企画なり講演は、留まるところを知らぬようです。
皆さま、今後も当ブログを充分注視していてください。
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2024年2月17日
穴倉さん、鏡花の創作の場「番町の家」の全貌を解き明かす
「歴史と伝統文化講演会」の本日(令和6年2月17日)の講師は
泉鏡花記念館 学芸員の穴倉 玉日さんです。
穴倉 玉日さんの当講演会での講演は実に約5年ぶりです。
(前回の講演は令和1年6月15日でした。)
そのときは「 浪漫の作家 泉 鏡花 」というテーマで語って頂きました。
その時は
鏡花作品の中から「義血侠血」、「照葉狂言」、「化鳥」、「由縁の女」の、
金沢ゆかりの作品を取り上げられ、鏡花の世界を私たちに伝えて下さいました。
本日のテーマは「鏡花生誕150年~存在をつなぐということ~」です。
2023年は、泉鏡花(1873-1939)の生誕150年にあたりました。
これを記念して
昨年10月1日から11月26日にかけて、泉鏡花記念館では空襲によって焼失した
鏡花の終の棲家(通称「番町の家」)を再現した「再現!番町の家」の
企画を行っておられました。
慶應義塾図書館、および泉家遺族の方のもとに分蔵されている、自筆原稿
や鏡花の執筆活動を支えた愛用品の数々などを「番町の家」企画で
再現されていました。
このような再現をすることがどうして可能であったのか、のプロセスを
本日、穴倉さんは詳細に説明され、解き明かされたのです。
そのプロセスの説明において鏡花の人物像を浮き彫りにし、
鏡花の交友関係をも詳らかにし、また、徳田秋聲とのエピソードも
語って頂きました。
この再現にあたって、数々の協力者がいました。
鏡花文学に傾倒していた作家の里見弴、水上瀧太郎、水上の
親友であった慶應義塾塾長 小泉信三 諸氏の協力で、作家「泉鏡花」の遺品が
慶應義塾大学図書館に収蔵され、人間「泉鏡花」の遺品は鏡花の奥様のもとで
収蔵されるという運びになったわけです。
写真家 渡辺義男により撮影された写真も「番町の家」再現に大きく
寄与しました。
穴倉さんの説明はここから更に詳細な領域に入ります。鏡花の書斎の
南面、西面、北面などに設置してある家具、置物、備品、什器などにも
言及され、鏡花の人物像を浮き彫りされました。
これで、泉鏡花の存在がぐっと身近に感じられてくるから不思議です。
何か、これで鏡花作品が読みやすくなった気が(皆の中に)生まれて
来たのではないでしょうか。
創作の場、生活の場である「家の様子」、その中に備えられている数々の「物」、
それらのものが、鏡花という作家の「存在」及び「作品」究明にあたって
大変重要な役割を果たしている、ということを穴倉さんは力説されたような
感想を持ちました。
穴倉さんに
「WEB展覧会 再現!番町の家 泉鏡花記念館 × Keio Exhibition RoomX」という
ネット検索で、「番町の家」を我々も訪問し、探索出来ることを教わりました。
是非、皆さんもお試しあれ!
たいへん楽しく、面白く、そして実用的な お話をして頂き
泉鏡花作品への読書熱が 以前にも増して昂まりました。
穴倉さん、本日はたいへん有難うございました。
感謝 感謝!です。
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2024年2月10日
「力道山から馬場、猪木&馳」プロレス歴史展
本展示は、近年 「近江町市場300年史」を著わされ、また その世界においては
著名なプロレス史研究家 石田順一 さん(金沢市小立野在住)の貴重なコレクションからの
展示です。
〝もはや戦後ではない〟
「神武景気」の有名なキャッチフレーズです。
戦後、敗戦で打ちひしがれた日本に、彗星のごとくに登場したのが、プロレスの力道山でした。
街頭テレビの前は、黒山の人だかりとなり、ブラウン管に映る力道山の一挙手一投足に合わせて
群衆が揺れ動く様は、まさに圧巻、人々の生き生きとした表情は感動的ですらあり、
外国人レスラーを空手チョップでなぎ倒す力道山は、暗い世相も吹き飛ばし
、一大プロレスブームを巻き起こしました。
日本におけるテレビの普及率は、諸外国に比して高い数値を示し、
それは力道山のプロレスが要因だったと言われています。
力道山から元気を、勇気をもらった人々は、一生懸命に働き、家庭にテレビを購入し、
力道山のプロレスを観て、さらに労働に勤しみました。
力道山のプロレスは、戦後の日本国民に昂揚感を与えるとともに、経済を引き上げる
推進力ともなったのでした。
冒頭で書いた戦後初の大型好況、高度成長の幕開けである「神武景気」の
牽引役を果たしたのは、実はプロレスの力道山だった―これがどんな経済書にも出てこない、
どの経済書も見落としている「力道山景気論」であります。
本展示は、「力道山から馬場、猪木 & 馳」 と題して、
”戦後最大のスーパーヒーロー” 力道山によって大衆の間に根付き、大輪の花を
咲かせたプロレス文化を、力道山の死後、弟子である馬場、猪木が受け継いで
黄金時代を築き、そして現在、わが石川の県政を担って日々 激務に奮闘する
馳 浩石川県知事の、プロレスラー時代の足跡も当時の資料によって
振り返った歴史展です。
昭和38年1月の三八豪雪では、力道山から雪害救済見舞金の善意が
届けられました。
本年1月、石川県を襲った「県政史上 未曾有の大災害」能登半島地震の
復旧復興に向けて取り組む馳知事のもとに、天国の力道山からの元気が、勇気が
届けられ、被災地への力ともなりますように。
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「敗戦後、日本が力道山から貰った勇気・元気を、
今 再び能登半島大地震被災地に届けよう!」
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当展示の期間は
令和6年2月11日 ~ 5月22日まで。
なお、次年度(令和6年度)の、尾張町 歴史・伝統文化講演会 第一回目
(5月18日(土) 13:30 ~ 15:00)として
「 伝説と謎に包まれた ”戦後最大のスーパーヒーロー” 力道山 」が
当展示の提供者である、力道山史研究家 石田 順一 氏 を講師として開催の予定です。
こちらの方もよろしくお願いいたします。
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力道山夫人 田中敬子さんから頂いた色紙、書籍。
田中敬子さんのサインのある色紙、それを挟んで左に2冊、右に1冊の書籍。
(3冊とも夫・力道山を語った敬子さんの著書。)
色紙には「感謝」の言葉とともに、力道山の全人生を貫く「絶対あきらめない」の
精神、を表す「Never give up」の言葉が添えられている。
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2024年3月15日 東京から思いもかけぬスペシャルゲストのお三人様が
お見えになりました。
左は力道山夫人の田中敬子さん、右は説明をする石田さん。
(以下の3枚、同じ。)
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以下は、左からアントニオ猪木のライセンス管理をされている宇田川強さん、
力道山夫人の田中敬子さん、説明をする石田さん、アントニオ猪木の実弟の猪木啓介さん。
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左から田中さん、宇田川さん、石田さん、猪木さん。
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2024年1月20日
齋藤先生、小堀遠州・加賀藩の関係を鮮やかに解説
中村記念美術館 学芸員 齋藤直子先生の
当講演会久々の(令和6年1月20日実施)ご登壇です。
2015年10月17日以来の、実に8年と3カ月ぶりの
齋藤先生の講演です。
前回は、「金箔の歴史」と題した講演でした。
齋藤先生は、安江金箔工芸館の学芸員をなさっていた
ことがあり、この分野にも大変通暁されており、「金箔の歴史」の
講演をして頂いたのです。
ことときの講演の冒頭、齋藤先生は、「皆さん、金箔は何と発音しますか、
「キンパク」( 最初の「キ」の音の音程が一番高く、次の「ン」「パ」「ク」に
行くにしたがって音程が下がって行く。 )ですか、それとも
「キンパク」( 最初の「キ」の音程が一番低く、次の「ンパク」
は少し音程を上げて平坦に発音する。 )ですか、と尋ねられました。
前者は、ここ石川、金沢、でのアクセントであり、後者は標準語系の
アクセントだと思います。このとき齋藤先生は、金箔は金沢が日本を
代表するので、(最初の金沢風の)「キンパク」で行きましょう、とおっしゃったのです。
ここで聴衆の(少なくとも筆者(交流館係員))の心を鷲づかみにされました。
齋藤先生の、そのときのイントロダクションを筆者は鮮明に覚えています。
さて、今回(令和6年1月20日)の齋藤先生の講演テーマは
「茶を通した小堀遠州と金沢のつながり」です。
当講演会での「茶道」にかかわる講演は、2016年9月18日の、
大島宗翠先生(石川県茶道協会代表幹事)の講演にその例を見ます。
( この時のテーマは「金沢の茶道を知ろう ~ 裏千家茶道のお話 ~」でした。)
小堀遠州は幕府の作事奉行をつとめた江戸時代初期の大名です
大名、茶人、建築家、作庭家、書家であった小堀遠州と金沢のつながりとは
何なのだろう、齋藤先生はこのテーマについて何を語ってくださるのだろう、
との興味津々の気持ちで講演を拝聴しました。
齋藤先生の本日の講演は、小堀遠州、仙叟宗室の、前田家、及び
加賀藩にもたらした茶道文化、茶道具文化についての詳説でした。
小堀遠州と前田家の関係を解き明かし、「前田家伝来品」及び
「前田家の三名物」の多くは小堀遠州の仲介になること、そして
それらの道具類、作品類をスライドで詳しく説明されました。
これらを通しても、小堀遠州の美意識の程が伝わります。
彼の、加賀藩茶道文化への貢献度合いの大きさがよ~く理解できました。
先生はそのあと、話を かの仙叟宗室に移されました。
仙叟宗室の仕官には、遠州の弟の小堀左馬介正春 等の口添えが
あったそうです。
これにより仙叟宗室は前田利常に仕官できたそうです。
ここにも小堀遠州の影響があったのですね。
そして、仙叟宗室は加賀藩の茶道に大きな影響を
与えたのですが、さらに彼の働きで、加賀藩に「大樋焼」、
「寒雉釜」が誕生し、華開きました。
齋藤先生の本日の講演は、茶道具一点一点についての
濃密な解説、「藤原定家」の書の、茶道具への反映の様、の
詳説など、内容盛り沢山で、とても筆者の報告では全容を伝えかねます。
講演終了時の、聴衆の皆さんの万雷の拍手が、本日の齋藤先生の
講演の素晴らしさを物語っていました。
最後に齋藤先生は、中村記念美術館の今後の企画の一端を
紹介されました。聞いていてどれもこれも魅力あるものばかり、
早速、足を運びたくなるものばかりです。
こんな素晴らしい企画・展示のある「中村記念美術館」と、
それに輪をかけて素晴らしい「齋藤先生」がいらっしゃる「中村記念美術館」の
近くに住まう我々は何と恵まれているのか、と痛感しました。
早速行きましょう、「中村記念美術館」へ。
心寛げる「美」に触れて、皆 心豊かになりましょう !
そして そこで齋藤先生の解説を聴ければ、さらに心豊かになれる !
そういった思いが心に満ち満ちた講演会でありました。
齋藤先生、次年度もまたよろしくお願いします。
2023年12月16日
藪田さん 迫真の、秋聲像への接近
徳田秋聲記念館 学芸員 藪田由梨さんの講演も
今回で第6回目となりました。
当講演会においては勿論 ダントツの最多出演です。
いかに多くの方が藪田さんの講演を熱望、嘱望されているかの
証です。
今回(令和5年12月16日)は、「没後80年-秋聲を偲ぶ」という
テーマで講演をして頂きました。
ここで、今までの藪田さんの、当講演会でのテーマを辿ってみますと、
第1回目が「金沢の三文豪を知りたい」、第2回目が「中原中也と金沢」、
第3回目が「秋聲文学とのつきあい方」、第4回目が「徳田秋聲を考える」
となっており、前回の第5回目は「徳田秋聲の先進性~生誕150年を終えて~」
でした。
いずれの回も、「自然主義文学」というキーワードを用いられ、
時には文学的立場において対極にある中原中也との対比をもって秋聲文学を
解き明かす、といった講演をして頂いた、と解しています。
回を重ねるごとに「秋聲文学」、そして「徳田秋聲」の人となりに
ひたひたと迫り来る、といったようなテーマの進行具合のように見受けられます。
さて、前述のように今回のテーマは「没後80年-秋聲を偲ぶ」、という
秋聲さんを総括するような講演内容の予感がありました。
つまり、秋聲をまとめ上げるような・・・。
でも、そうではなかった、まとめるには まだまだ「秋聲」は奥深いのだ、まだまだ
面白いのだ、というのが筆者(講演会報告者:交流館 係員)の感想でした、
結論を申しあげれば。
「没後80年-秋聲を偲ぶ」というテーマにもある通り、徳田秋聲が世を去って
80年も経つのです。
そのくらい経つと、秋聲に対する評価、解釈はもはや動かしがたいものに
固定されてしまっていると考えられます、普通は。
そこのところに藪田さんは、本日は深いメスを入れられたかの感がしました。
はたしてそうなのか、今までの「秋聲」論は既成のものになって
久しく、固定化してしまっているのか、と。
以下に述べるは、筆者の感じ取った全くの、個人的見解に過ぎず、
誤解、曲解があるやもしれません。
そうであれば、平にお許しを。
整然とした、しかしその流れにおいて「秋聲」をダイナミックに我々に
示すが如き藪田さん提供のレジュメは、盛りだくさんの「秋聲」像を
本日、我々(聴衆)にもたらしてくれました。
今回は、「秋聲の発した追悼文(対 泉鏡花、夏目漱石、芥川龍之介、葛西善蔵)、
を通しての、彼らに対する秋聲からの評価」、また、「作品中に描写した
(父、長女、母、義母、妻)の死という事実に遭遇した時の、秋聲の心情、
その時抱いた心の起伏」、といったものを通して「秋聲」文学、「秋聲」という人物
の真相、に迫ろうとの試みだったような気がします。
藪田さんの、超一流の説明テクニックを駆使しての。
また、徳田一穂氏から見た、「秋聲」の死を通しての「秋聲」の小説観、
広津和郎を通しての、正宗白鳥の弔事に見る「徳田秋聲」評、「徳田秋聲」観、
川端康成の「徳田秋聲」評、「徳田秋聲」観、久米正雄、高見順、舟橋聖一、
の「徳田秋聲」評、「徳田秋聲」観、を怒涛の如く、藪田さんは紹介及び解説
されました。
秋聲文学を解明するキーワードとして、「事実の正確な凝視」、「現実性」、
「自然」、「自由」、「無礙」、「とらわれぬ、こと」、「天衣無縫」、が上げられる
のですが、これらのことがややもすれば「無技巧」、「無計画」という評価にも
帰結しそうです。
ところが舟橋聖一は秋聲作品を評して、「事実の正確な凝視」をしっかりした上で、
「自由闊達」に再編成という作業を経た芸術品である故、他の理想主義作家
より「想像力」を持っていた、と喝破しています。
秋聲は、作品中、無技巧で、無計画なふうを見せかけ、
しかしその実は「緻密」な計画性をもって創作に当たったのだ、
と本日 藪田さんは力説されたような気がします。
そうだとすると、「秋聲」の読み方は変えなければいけませんね、
そうすれば、もっと「秋聲」文学がわかるかも。
高見順の、「秋聲文学は難解、人生のように難解」、「海のように単調で複雑」、
という評もあるほどで、今までの通説的既成観念で秋聲を論ずることは
できないのだ、と思いました。
藪田さんが、「秋聲」文学の奥深き難解さを、心から楽しんでいるのでは
ないか、とさえ思えてきた今日でした。
藪田さんの、軽やかで、闊達で、リズミカルな語り口が、時として
子守歌ふうに筆者の耳を覆い、不覚にも講演中、「うつら」とした
瞬間がありました、数分ですが。
もしやその時、大事なことを聞き逃したのではないか、と悔やみながら
この報告を書いています。
もしそうであれば、お許しを。
話は余談になりますが、当報告を書くときに、筆者は
講師の方を「〇〇先生」と記すことが多いのですが、今回の報告では
「藪田さん」と書いてしまっています。今や、「寸々語」においても全国にファンを
持つ「藪田先生」をつかまえて「藪田さん」とは何と馴れ馴れしくて失礼な、
と自問してしまいました。
過去の報告(ブログ)を振り返りますと、
第1~第3回までは「藪田先生」でした。しかるにどういうわけか
第4回から今回の第6回目まで「藪田さん」と記述してしまっています。
知らぬ間に。
藪田さんの講演に接するに従って、リスペクトの念は高まっているのに、
それに反比例するがごとく「先生」から「さん」になっています。
心理分析をしてみると、藪田先生に対する親しみの度合いが著しく増大した
ことの現れなんだと思いました。
ほぼこれと同期して「秋聲さん」に対する親しみ、も飛躍的に増大しています。
次回の藪田さん、どういう「秋聲」を語って頂けるか、楽しみです。
それまでに我々も、少しでもたくさん「秋聲」を読んで、準備をしておきましょう。
2023年11月12日
本康先生、「軍都」金沢の背景、意義を詳説
待ちに待った、日本の近現代史、地域史、産業史のスペシャリストとしてご活躍の、
金沢星稜大学特任教授 本康宏史 先生の講演会です。
(本日(令和5年11月1日)実施。)
実は、本康先生の尾張町商店街「歴史と伝統文化講演会」としての
講演は今回が初めてなのです。
そして待ちに待った、とは、先生の講演は昨年の8月20日に
「軍都金沢と陸軍御用の門前町」というテーマで組まれていましたが、
猛威を振るうコロナの前に、延期を余儀なくされていたのです。
しかし、実質的には、先生の講演、講演的なものは今回で
3回目なのです。
2019年6月、NHK金沢局制作の、「かがのとイブニング」という番組に
ご出演いただき、老舗交流館の展示資料などをもとに、金沢市制130年というテーマで
語って頂いたのが第1回目(これは観客無しなので講演的なものと位置づけました)。
そして、第2回目は令和元年11月3日の尾張町商店街「歴史と伝統文化講演会」
の特別編として講演をして頂きました(「3茶屋街にぎわい創出」企画。このときは
「観光金沢と旧城下町の茶屋街」というテーマで語って頂きました。)
ということで今回が実質的には3回目の講演となるわけです。
勿論 テーマは昨年より持ち越しの「軍都金沢と陸軍御用の門前町」です。
皆の、最大の関心事のテーマです。
老舗交流館には、お客様から寄贈された大正8年、同12年の
金沢市街地図があります。
よく見てみると、金沢城内には、「第九師団司令部」、「歩兵第七連隊兵営」、
「第六旅団司令部」があり、また、街中には、出羽町練兵場、野村練兵場、
各種の連隊、大隊、兵器支廠があることに気づきます。
まさに軍事都市の様相です。
このように、軍隊が設置されている金沢の都市計画はどうだったのか?、
軍隊設置と金沢の経済の関係は?、軍隊と市民の関係はどうだったのか?、
よって、本日の本康先生の講演は興味津々の心持で臨みました。
冒頭、先生は 以下の各期における金沢城内の「主」は誰、と問いかけられました。
藩政期以後の期間を大きく3つに区切り、1871から1945年までと
1945年から1949年までと、1949年から1994年の3つの期間です。
上記を第一期、第2期、第3期としたとします。
第一期は陸軍の軍隊、第3期は金沢大学、とここまでは皆 すぐに分かりました。
第2期が意外とすぐに思い浮かびませんでした。
そうです、進駐軍でしたね。
先生の、この話の持って行き方で、皆、ぐっと金沢城を中心とした金沢の
軍都ぶりに思いを馳せました。
先生の本日の講演は、
1.金沢の軍都(軍事基地)としての適格性。
2.金沢における軍事基地があっとことの名残り。
3.軍隊駐留が、金沢にもたらした経済効果(陸軍御用の門前町)。
の3つに大別される、と筆者は解釈しました。
1.金沢の軍都(軍事基地」)としての適格性
金沢は、金沢城を中心に擁する城下町であり、もともと軍事基地として
好適であり、1871年(明治4年)に城地は兵部省の所管となり、
その後、歩兵第7連隊(城内)、歩兵第35連隊その他の軍事施設及び隊が
金沢に置かれました。そして、1898年(明治31年)、日露戦争に備えるべく、
第9師団が置かれたのです。
師団が置かれるのは、代表的な都市だけであり、金沢もその例に
洩れなかったわけであります。
金沢の都市としての格が大いに上がったわけであります。
先生が仰るには、師団の長たる師団長には、中将がなるもので
県知事より格が上だったそうです。
金沢駅が1898年(明治31年)に設置され、小松~金沢間に鉄道が開通しました。
同年設置の第9師団開設に沿うように、軍事目的の一環だったわけです。
よって、開設された金沢駅も軍事施設の一つでありました。
2.金沢における軍事基地があっとことの名残り
金沢は戦災に遭っていないため、様々な建築物が残っています。
軍事施設も例外ではありません。
赤レンガの歴史博物館は、元は旧陸軍兵器支廠兵器庫であることは
多くの人が知るところでありますし、近年東京から大部分を移設された
国立工芸館の建物も、もとは軍事施設を引き継いだものです。
旧陸軍の第9師団司令部庁舎と金沢偕行社を移築したんでしたよね。
趣があり大変立派な建物で市民、県民の誇りですが、
先生がスライドで示された、本家の国立工芸館(東京 竹橋)はもっと立派でした。
元は、近衛師団司令部庁舎だったそうです。立派なのは当然でした。
あと、金沢城内の、軍事基地であった数々の名残の場所を先生は
スライドで示して頂されました。今後の城内散策が楽しみです。
3.軍隊駐留が、金沢にもたらした経済効果(陸軍御用の門前町)
尾張町界隈には軍需の恩恵を受けた商店等が多く残っていることを
先生は指摘されました。
テント屋さん、軍服製造が転じての学生服のお店、写真館、
干菓子を扱う和菓子屋さん、本屋さん、旅館、料亭、遊郭等々。
いずれも、軍隊関係・その家族からの需要を享受した商店等で
「陸軍御用の門前町」といえる様相でした。
軍隊が居ることで潤った例として、軍縮政策の一環で7連隊が一度
野村の方に移され、城下の街(尾張町、大手町、中町)が廃れたので
これらの街の人たちが7連隊復帰嘆願運動を行い、7連隊が城内に
戻った話を上げられ、「陸軍御用の門前町」であったことが如実に
理解出来ました。
(富山の歩兵69連隊が軍縮政策のために廃止され、代わりに
金沢の野村の地にあった歩兵35連隊が、富山に移された。
そこで、一度、7連隊が城内から、野村の地に移された。
そのために大手町界隈が廃れた、という背景があった。)
筆者の報告では、本日の本康先生の講演の充実ぶりを
何ほども伝えられていませんことを心苦しく思います。
先生の講演は、1時間半の講演時間にしては、内容豊富で、
本日のテーマ「軍都金沢と陸軍御用の門前町」を余すところなく
語って頂いています。
本康先生の、次回以降の講演が早くも楽しみになって来ました。
本康先生、長時間にわたる目いっぱいの講演、有難うございました。
大変、勉強になりました。
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2023年10月21日
長谷川真希先生、加賀象嵌をぐっと引き寄せる
本日(令和5年10月21日)は
加賀象嵌ジュエリー作家 長谷川真希 先生をお迎えしての
今年度5回目の講演会です。
(先生は、加賀象嵌技法を中心にジュエリーを制作する
「希らら」を設立、運営されています。)
長谷川先生の講演は、当講演会としては初めてです。
ですが本当のところは、昨年の7月16日に
「わかりやすい加賀象嵌」と題しての講演を頂く予定でした。
ところが、その頃は新型コロナが勢いを増していた時期でもあり、
長谷川先生と相談して昨年度としては中止とさせて
頂きました。その相談のさなか、(そのとき先生には交流館に来て頂いて
いました。)先生は、かつてここでご自分の作品を展示したことが
あった、と述懐されました。
私(筆者)が、ここの係員となる前の話です。知りませんでした。
先生には、「尾張町」は、以前からたいへんお世話なっていたのですね。
1年3カ月待っての、待ちに待った長谷川先生の講演です。
テーマは勿論「わかりやすい加賀象嵌」です。
一時間半はあっという間でした。
先生がご持参頂いた数々の作品をまじかに、しかも手に取って
拝見できたり、松脂、松煙から出来た、地金を固定するための土台を
お持ち下さって、それを使っての彫金の実演まで見せて頂き
当講演会ならではの良さを実感させて頂きました。
この彫金は参加者も体験させてもらい、皆、象嵌というものが
すごく身近になりました。
さらには、長谷川先生から「食とアートの交流展」(銀を入れる象嵌体験
をしてネックレスを作る、というイベント。長谷川先生が講師)の
ご紹介を頂き、参加者の何人かはその場で早速申し込みをする、といった
皆の象嵌への理解がたいへん深まり、熱のこもった講演会となりました。
先生のプロフィール紹介、加賀象嵌の歴史、金属工芸の種類、
色金(いろがね)を用いる、金沢ならではの特徴、を講義頂き
まず、象嵌の世界へといざなって頂きました。
さらには、着色の技法、金属の埋込み技法、へと講義は進展し、
彫金の実演となった次第です。
まさに「わかりやすい加賀象嵌」というテーマにふさわしい講演でした。
お持ち頂いた、先生の数々の受賞作品群は、いずれもがカッコよく
美しく、凛とした品格を包蔵していました。
先生の作品群は、
誰の目から見ても素晴らしさを感じ取られるものでしたし、誰にも憧れを
抱かせるものでしたし、そして、作り手の長谷川先生の、お人柄の
素晴らしさをも偲ばせるパワーをも宿していました。
伝統ある加賀象嵌を基点にして、長らくずっと研鑽に打ち込まれ、
斯界での数々の受賞をされ、ジュエリー作家としての地位を確立された
長谷川真希先生が、そのジュエリー作品群の醸し出す美の永続性に
負けぬ永続性をもって、今後ますますご活躍なされることを願う心持ちに
させられた講演会でした。
長谷川真希先生、本日は楽しい一日を体験させて頂き、
有難うございました。
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2023年10月5日
金沢商家銅版画展(明治21年)
明治21年の、金沢商家の銅版画(複製。尾張町以外の金沢商家103店舗)の展示です。
( 出典は明治21年出版の「石川県下商工便覧」)。
業種は、衣類、糸、絵具、菓子・砂糖、紙、ガラス、薬、香水・香油・諸油、
小間物・荒物、酒・煙草、摺付木(マッチ)、染物、陶磁器・漆器、針、武具、
文房具、宿、料理、その他 です。
文明開化の機運に満ちた金沢商家の勢い、風情を、常設の尾張町26の商家と
併せて、とくとご覧ください。
なお、前回展示のプリペイドカード(彦三町 Y氏のコレクション)は、大変な
好評を頂きましたので、前回展示の一部(列車ヘッドマーク、鉄道(在来線)、
新幹線、駅舎、寝台特急、自動車)を継続して展示してあります。
以上の展示期間は、令和5年10月5日(木)~ 令和6年2月7日(水)まで。
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2023年9月9日
当講演会レギュラー安藤先生の、円熟の講演
安藤 竜先生の、当講演会におきましては4回目のご登壇です。
(安藤先生は、現在「かなざわ食マネジメント専門職大学 助教」として
歴史学を講じられています。また「金沢 歴活 代表」としてもご活躍です。)
第1回目のテーマは「江戸時代の近江町市場と尾張町」、
第2回目は「北前船と全国市場」、
第3回目は「加賀藩の将軍献上と特産品」、
そして今回(令和5年9月9日)は、「江戸時代の村の鉄砲と鳥獣害」
というテーマでした。
先生の講演は、歴史認識において解りやすい指摘をされていることは勿論ですが、
これらのテーマの変遷を辿れば、江戸時代における加賀藩の
商業史、経済史的側面を多大に含んでいます。
「その土地土地の歴史研究を通して、生活の場であるその土地が、そこに
関わる人たちにとっての、かけがえのない場所になり、そこの企業・地域をも
活性化することへ繋がる」のだ、という、先生の一貫したスタンス、ポリシーに
に裏打ちされているようなテーマの変遷、と見て取れます。
ところが本日の先生の講義は「江戸時代の村の鉄砲と鳥獣害」というテーマであり、
ところどころに加賀藩の各農村での鉄砲所持数、「鉄砲、火薬の下げ渡し数」
の説明のところで特定の地区が出てきましたが、特定の地区地区が
歴史的に包蔵しているストーリーの展開による、地域起こし的な講演では
ありませんでした。
本日のテーマを解き明かすべく、全くの、史実に忠実な講演でした。
しかし、講演後、先生と少し話する機会があり、そのとき分かったことですが、
今回のテーマは、最近先生がものされた大論文がその出典だったのでした。
論文ですから、硬いところもあるでしょうに、解りやすく、軽妙に語られた
この講演は、安藤先生ならではこそ、のものでした。
江戸時代になぜ各村々に鉄砲があったのか、それは「鳥獣害」対策の
ためであったのだ、という事実を、先生は幕府の政策(ex 生類憐みの令)の変遷、
加賀藩の政策の変遷、の裏付けのもとに、詳細に説明されました。
安藤先生の提供された(本テーマに関わる)膨大かつ整った資料による講演は
いつもの如く、精緻極まるものでした。
「刀狩り」があったのになぜ鉄砲が村の農村にあったのか、当時は鉄砲は
農村にあっては武器というよりも農具、猟具であったのだ、などとか、
村での鉄砲の管理体制の変遷(緩やかな管理体制から厳格な管理体制へ)など
、聞いていてそういうことだったのか、と納得できる説明がいくつも語られました。
鉄砲を農具・猟具とまで言わしめるほどの「鳥獣害」があったことが、農村における
鉄砲所持数にも表れています。
幕府の、あるいは各藩の政策にも「鳥獣害」対策が表れています。
今まで知らなかったことが次々に語られました。
新しい知識を仕入れられたことの快感を感じました。
安藤先生の、このような、毎度の明瞭、明解な講演・・・というよりも講義は
尽きるところがありません。
聞いていて、スカッと分かった、解った、という快感に浸れるのですね。
ところで安藤先生の、語り口、語り調子に、今回 初めてその特徴に気がつきました。
先生は、毎回 講演の冒頭に自己紹介をされます。
そのなかに、兵庫の生まれ、育ち、ということをいつも仰います。
そうなんです・・・講演の途中から、標準語調の話しぶりが、どこかで関西イントネーションに
どんどん変わってゆくのです。
先生が意図して、テクニカルにそうなさっているのか、自然にそうなってしまうのか
解りませんが、これが安藤先生の素晴らしい持ち味だと感じ取りました。
これが聴衆に和みを与え、フレンドリーな雰囲気を提供するのです。
そのこともあってか、講演後、多くの質疑応答がなされました。
次はどんなテーマを引っ提げて 登壇されるのかな~と今から楽しみです。
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