2024年11月20日
本康先生、観光鳥瞰図を駆使して粟ヶ崎遊園等観光事情を熱弁
金沢星稜大学特任教授 本康宏史 先生の講演の日がやって来ました。
(令和6年11月16日)
先生の講演は、日本の近現代史、地域史、産業史のスペシャリストとしてのもの
ゆえ、この分野においては他の追随を許さないこと勿論ですが、
せんだって先生は栄えある「北國文化賞」を受賞され、本日の講演はより一層の
光彩を放つものであったと感じ取りました。
本日の講演は、石川、金沢においての、私鉄の発展と観光、というものの融合化、
そして工業振興策以外の、観光の産業化、というものの萌芽にも言及されたものだと思えました。
テーマは「粟ヶ崎遊園と観光鳥瞰図 ― 昭和初期の郊外遊園地」という具体的なものです。
(本康先生には、過去に「観光金沢と旧城下町の茶屋街」、「軍都金沢と陸軍御用の門前町」という
テーマでの講演を頂いております。全くもって「金沢」の深堀りでした。今回もそれらに増して
興味深いテーマです。)
本日、先生は大正末期から戦前にかけての、金沢の行楽地である「粟ヶ崎遊園」を大いに
語られ、これのライバルである「金石涛々園」にも触れられ、金沢の経済振興のために企図された
「産業と観光の大博覧会」(昭和7年)を大々的に説明されました。
この、金沢での「大博覧会」が契機となって観光というものの産業としての重要性及び価値が
当地域の人々に認識され出したのだと思います。
そして、今回の特色は、これらの説明において、先生は「観光鳥瞰図」を使われた点にあります。
(鳥瞰図とは、天空より見たと想像されるパノラマ風景画のこと。)
このころ(大正~昭和初期)観光鳥瞰図なるものが作られだし、鉄道路線図、風景画、
名所図の要素を有し、これが温泉地の宣伝、行楽地の宣伝・案内等、観光業の発展に寄与し
また、金沢開催の上記の「大博覧会」の盛況に向けて大いに貢献したということです。
鳥瞰図は、また、これをを眺めているだけでも楽しみをもたらし、人々の行楽欲、旅行熱を
高める効果もあったようです。
先生はこのようにして多種多数の鳥瞰図、当時の写真を用いて説明されましたので、
これにより「粟ヶ崎遊園」、「金石涛々園」の楽しさが我々に存分に伝わりました。
また、多大な経済効果をもたらした金沢での「産業と観光の大博覧会」の壮大さを、
余すところなく伝えて頂きました。
とにかく、鳥瞰図の楽しさ、明解さも相まってたいへん楽しい講演でした。
郊外電車と遊園地事業の連携、というビジネスモデルが金沢に存したということ、
観光推進やイベントの成否に、ヴィジュアルツールの果たす役割が大きかったということ、
(この時代の例では「鳥瞰図」ということになります。)がよくわかりました。
また、行楽地、名勝、伝統芸能、温泉地 等の観光資源を駆使して
観光というものを強固な産業に押し上げる契機が、大正から戦前にかけて石川、金沢に
存在し、今日の観光立県・石川、金沢に繋がっているのだろうと思います。
「観光鳥瞰図」作成の流儀は、強調したいものを分かりやすく、明瞭に訴える方式での
今日のヴィジュアルなイラストに生き続けています。
「北陸の宝塚」とうたわれた「粟ヶ崎遊園」、「産業と観光の大博覧会」など、
少なからず「ロマン」を希求する空気が横溢していた「大正」期から、昭和初期までの、
あの暗い戦争に突入して行く前夜のまでの時代の、金沢モダニズムの発露であると思われた
経済事象、文化事象に光を当てて本康背先生は熱く語って頂きました。
「観光鳥観図」、「写真」を多用されての説明は、歴史博物館草創期からスタッフとして、
展示に様々な工夫、仕掛けをこらして近代史に光を当ててこられた本康先生ならではの、
有難い講演会でした。
本康先生の次回が、早や待ち遠しくなりました。
先生、本日はたいへん有難うございました。
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2024年10月23日
増山先生、時の人 渋沢と郷土の英雄 高峰を熱弁
尾張町老舗交流館の展示の一つとして昭和33年の尾張町大通りの
写真があります。アーチ形の写真で、尾張町の、とあるビルの屋上から
360度の角度でとられた写真です。尾張町の歴史の証人的価値を有する
重要な写真です。この写真の中央に、森八本店と向かって左側に森八喫茶店の
建物が写りこんでいます。この喫茶店の新築披露式に、かの渋沢栄一さんが
大正7年に訪れ、森八のご当主はそのために門(渋沢門と称する)を建てた、という
新聞記事を数年前に目にしていました。よって当館を訪れる方々には
このアーチ形の写真を見ながら、この話を得々と紹介させて頂いております。
そしてその門は、今は「泉鏡花記念館」の門として移築されいます、と申し添えて。
何せ、つい先だって「渋沢翁」の肖像が1万円札になったものですから
尚更タイムリーなエピソードとしてお客様に説明させて頂いています。
また、当館の南南西の方向の背後(黒門前緑地)には、移築された「旧高峰家」があり、
タカジアスターゼとアドレナリンの発見で世界的に有名な、
金沢人なら誰でも知っている「高峰譲吉」さんを、いつも更に
身近に感じさせて頂いております。
本日(令和6年10月19日)の講演は、この上記お二人をテーマにした
もので、「金沢ふるさと偉人館」前副館長の増山 仁 先生が講じられました。
テーマは「高峰譲吉と渋沢栄一」というものです。
この偉人二人(両巨頭)の交わりが、果たしてどのようなものであったか、
開演前から興味津々でありました。
増山先生は、先ず、渋沢、高峰両人の生まれた時代相の説明から入られました。
時代は幕末です。
「異国船打払令」が出たりと、「海防」の必要性が切実に感じられた時代です。
日本は、鎖国から開国へと、大きくかじ取りを変えた時期でした。
加賀藩にあっては、明倫堂(文学校)、経武堂(武学校)が建てられ、
西洋軍事技術施設が設けられ、舎密(せいみ=化学)が教授され
多くの化学者を輩出したそうです。
高峰譲吉の父も、京都や江戸で蘭学を修めたことから加賀藩に招かれ、
舎密(せいみ=化学)の仕事に就きました。
このため譲吉は1歳で高岡から金沢に移り、明倫堂に学び、長崎留学、大阪医学校、
七尾語学校、を経て工部大学校(東京大学工学部の前身)に学び、26歳時に
イギリス留学を果たし、29歳で農商務省に入ります。
そして30歳の時に役人としてニューオリンズ万博に赴き、後の「人造肥料会社」の構想に
繋がる「燐鉱石」に出会います。
また、この年、後に高峰の伴侶となる米国人女性「キャロライン」に出遭います。
その後の、キャリアの積み重ね具合を、増山先生は、ドラマチックに語られました。
渋沢は、埼玉の富農の家に生まれ、長じて一橋慶喜に仕え
徳川昭武に随行してパリ万博へ行き、そこで先進的な産業、諸制度
を見聞し、明治政府の大蔵省(当時 民部省)に出仕するわけですが、
後、大蔵省を辞め、実業界へと移ります。
そこで、後述のように多種多様な会社を創り、経済制度の面、
教育・福祉の面、科学振興の面等において日本をけん引し、
日本を富ますに大いに貢献するわけです。
以下に、増山先生の説明された、高峰の偉業の数々、渋沢との交わり、そしてさらには
両者の、協同しての偉業を記します。
高峰の功績として、皆さん先刻ご承知のことでしょうが、
1.「タカジアスターゼ」の発明
2.「アドレナリン」の結晶抽出
が挙げられます。
タカジアスターゼの成分は今でも胃腸薬として使われており、
アドレナリンは心臓の動きを強めて血圧を上げ、気管を拡張させ、
今では、外科手術では強心剤、止血剤として欠かすことのできない
重要な薬剤として重宝されています。
これらは高峰の、化学者、研究者としての功績です。
高峰が「バイオテクノロジーの父」と呼ばれる所以です。
3.他方、彼は起業家精神に富む研究者でもありました。
高峰は、このタカジアスターゼを日本の三共商店に快く提供し、
三共商店は大いに発展し、「三共株式会社」を経て
今日の「第一三共」として存続しています。
高峰譲吉は、この「三共株式会社」の初代社長を務めました。
このように発明、発見したものを世に普及させようと特許を取り
志を同じくする人たちと事業化に努めました。
よって「開発型ベンチャー企業」の先駆け的存在でもあるのです。
4.もう一つの顔として日米親善につくし、「無冠の大使」ともよばれました。
( 米ワシントンD.C.のポトマック川沿いに桜並木を植え、日米の懸け橋となるべく
高峰譲吉が奔走した話は有名ですね )
この高峰と「日本資本主義の父」と称される渋沢栄一が協同したのが
東京人造肥料会社です。
高峰は、30歳の時にニューオリンズ万博に農商務省の役人として
参加し、先述したように人造肥料の原料になりうる「燐鉱石」と出会ったのが
彼の人生において、大きな影響を及ぼしたのでしょうね。
( ここで筆者は、ハタと思いました。「万国博覧会」というものの
影響力を。
渋沢が、その後の人生の航路を決めた一つの要素に、「パリ万博」が
ありました。そしてまた、同様の気付きが私に起こりました。
高峰にとっての「ニューオリンズ万博」も彼の人生に大いなる
影響を与えたのだと。)
この、先述した
「燐鉱石」は人造肥料の原料となるもので、欧米の進んだ化学肥料に触れたことで、
日本でも肥料を工業化すべきだという思いを持つようになり、
帰国した高峰は、さっそく化学肥料の工業化に乗り出すべく、
実業家である渋沢栄一に協力を依頼しました。
化学肥料の効能を熱心に語る高峰に渋沢は賛同し、
渋沢は日本初の化学肥料会社である東京人造肥料会社(現・日産化学株式会社)
を設立しました。
高峰は、同社の事業の成功を見る前に、アメリカでなすべき野望を
抱いていましたので、渋沢の引き留めに関わらず渡米し、
この渡米において、前述の、タカジアスターゼやアドレナリンの発見をなし
、世界的化学者となったわけです。がしかし、この渡米時、渋沢との間に軋轢を
生じた感もあったようですが、後日、高峰が凱旋帰国してからは、
宴をともにし旧の仲に復し、1913年、三共合資会社を三共株式会社へ
組織変更するにあたり協同し、また1917年に、高峰、渋沢、益田の
発起で「日米協会」設立をなし、また同年、渋沢が設立者総代として
(世界に誇る多くの科学者を輩出した)「理化学研究所」を設立しました。
これは
1913年、高峰が提唱した「国民科学研究所」構想がその基礎にあります。
1922年の高峰死去に伴う、東京での追悼式は、渋沢が主催しました。
以上は
「バイオテクノロジーの父」の高峰と「日本資本主義の父」の渋沢とが
手を取り合い、協同して成し遂げた偉業の数々です。
高峰譲吉由来の「高峰賞」は、いまでも金沢市内の、理科、数学に秀でた
中学生に授与され続けており、高峰博士の功績はずっと金沢市民の間に
リスペクトされ続けています。
一方、渋沢栄一は明治維新後、500を超える多種多様な会社を創り、
また多数の経済団体を設立し、福祉事業、医療事業、研究事業、教育事業を支援し、
国際交流等に多大な尽力を果たされたことはつとに有名であり、
この度の1万円札にその肖像が採用されたのは、渋沢の偉大さを大いに顕彰するものだと
思います。
二人とも、日本の近代化を、科学面、経済面、文化面、国力強化面等から
逞しく推進されたわけであり、日本の世界における地位を大いに高からしめた
巨人とも言うべき存在でありました。
増山先生のお話は、二人の、このような大をなすに至った歩みを、また二人の
協同の経緯、過程を、ダイナミックに語って頂いたわけです。
意外な事実として、1873年に、前年 美川に移転していた県庁を
金沢に復帰させるよう上申したのは、渋沢であった、との先生の
ご紹介は、渋沢門の存在同様、驚きでありました。
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2024年10月16日
「金沢城展」を開催
城下町 金沢の、最も城下町たる所以を表象しているのが金沢城。
金沢城の魅力を広く発信すべく、当展示を開催いたしました。
1580年(天正8年)加賀一向一揆の拠点であった金沢御堂を
佐久間盛政が攻略し、金沢城を築城。
その後、賤ケ岳合戦後に藩祖・前田利家が入城して本格的な築城工事を
実施。その後、利長、利常と3代にわたって普請が行われ、加賀百万石・前田家の
居城として繁栄した金沢城。
加賀百万石の軍事、政務の中心的拠点であった金沢城。
各建造物には鉛瓦を頂き、各時代時代の技法を凝らした、堅固でもあり
優美でもある石垣群をそこかしこに有する金沢城。
まさに
前田家の美意識と実利を兼ね備えた建造物群からなる金沢城であります。
これから金沢城に初めて行かれる人にも、幾度も行かれた人にも
金沢城の良さをご紹介し、また、その良さを再認識していただきたく
当展示を企画いたしました。
当館の「大正ロマン」の雰囲気の中で、展示内容に浸っていただきたく
思います。
他に金沢城関連の展示として
平成25年10月12日~21日 金沢城初代城主 佐久間玄蕃盛政 展
が金沢城河北門において開催され、この開催に当たり尽力・支援された方々に対する
佐久間盛政 子孫 16代 佐久間忠弘 様の礼状、その他佐久間盛政
に関する資料を展示してあります。
(佐久間盛政は柴田勝家軍に所属し
加賀一向一揆における最大の拠点であった寺院である尾山御坊を陥落させ
さらに1580年(天正8年)、「鳥越城の戦い」においても勝利を収め、
長年続いていた攻略の難しい加賀一向一揆を制圧したことで、
織田信長に実力を認められ、尾山御坊を領地として譲り受け、
尾山御坊跡地に築城を開始。土塁と堀を整備建築し、金沢城と命名。
こうして金沢城初代城主となったわけです。
もっと詳しく述べれば
佐久間盛政は、たいへん優れた武将であった、と多くの史料に記されており、
戦場の働きだけでなく、各地の城砦の改修でも活躍をしました。
織田家最大の敵だった本願寺教団の牙城加賀国を平定するという大功績を残し、
最後は戦を交えた相手の、天下人秀吉からもその力量は認められました。
このように、名将だったことは間違いない、と後世において絶大な
評価を佐久間盛政は得ています。
織田信長や柴田勝家からの信頼は厚く、同僚や部下とよく協力し、
死後も娘や弟たちが御家再興に尽力した、といわれています。
我々はこの、勇猛果敢で、優れた武将であった佐久間盛政につき、
今まであまり思いを致すことはなかったと思います。
このような佐久間盛政の、加賀の国に残した功績を、私たちは
振り返り、これを機会に前田家に対すると同様なリスペクトの念を
佐久間盛政に対しても深めましょう。)
(資料提供 佐久間盛政 子孫 佐久間家16代当主 佐久間忠弘 様、
佐久間多美子 様)
また
金沢城復元工事の総棟梁を務めた宮大工 嶺村輝久さん(現代の名工に
選ばれ、また北國風雪賞も受賞された方)への石川県からの感謝状等も
展示してあります。
(資料提供 嶺村 輝美 様)
どうぞ(復元を含めた)金沢城の今日を築いた先人の方々へも思いを馳せて
下さい。
展示期間は、令和6年10月17日(木) ~ 令和7年1月29日(水)まで。
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2024年9月21日
八日市屋館長、心温まる出前講義を熱弁
当館にお越しになるお客さんは、その大半が「ひがし茶屋街」へ
向かわれる方が多いのですが、そのほとんどの方たちは、「主計町茶屋街」を
予定コースに入れていません。そこで、たいへん風情を味わえる
「くらがり坂」経由のルートをご案内しています。
その際、目印として「金沢蓄音器館」の角を左折してくださいと、説明をしています。
そして、目印代わりに使わせて頂いた、「金沢蓄音器館」様に心苦しさを覚えて
、ここから私は力を籠めて「お客さん、お時間あれば、その金沢蓄音器館にも
是非ともお立ち寄りください。明治~昭和の、風情ある蓄音器が百数十台と
展示されています。
素敵な館長さんの解説も聞けるかもしれません。ぜひお立ち寄りを」と言うと、
時間に余裕のある方は、それではぜひ蓄音器館にも行ってみましょう、とお答えに
なられるケースがかなりあります。その時は、金沢蓄音器館を目印代わりに使い、
少し罪悪感にさいなまれた私は、ほっと安堵の胸をなでおろすのです。
また、近時は、金沢蓄音器館を直接の目的地として金沢に来られる方も増えてきました。
そんな「金沢蓄音器館」は尾張町自慢の、最高の文化施設だと、いつもリスペクトさせて
頂いております。
本日(9月21日)は、その金沢蓄音器館の館長、ジェントルマンの典型である
八日市屋さんの講演となりました。
八日市屋さんのお話は、金沢蓄音器館でお聞きになった方もいらっしゃるでしょうが、
本日は、いわば その出前講演ヴァージョンです。
テーマは「蓄音器 不思議の音 ― ふるさと・ゆかりの音 ― 」でした。
1時間半の講演は、あっという間でした。
八日市屋さんの、講演の途中も、終わってからも、何か暖かいものが胸中を
満たし、ほのぼのとした高揚感に包まれたことでした。
八日市屋さんは、昭和2年の、ビクター製の蓄音機を会場にお持ち込みになり、
これを用いて、ご持参された石川県ゆかりの、戦前戦後の10数枚のSPレコードを、
瀟洒な解説付きで聴かせて頂きました。
録音当時の、そのときの、そのものの自然の音が刻印されたSP盤から
件の蓄音機が、電気の力を借りずに、忠実に、機械的に音を拾い、再生する音色は
なぜか聴くものをして、何か懐かしい、和みの境地へと向かわしめました。
講演タイトルにもありますように、「ふるさとゆかり」の音源を再生して頂きましたので、
なおさら、聴衆の皆は堪能し、心を動かされたことだった、と感じ取りました。
戦前のものとして、「山中節」、あの「永井 柳太郎」の演説、北廓芸妓の「四季の金沢」、
室生犀星の作詞になる「かもめ」、金沢出身の三角錫子作詞のあの名曲「真白き富士の根」、
泉鏡花ゆかりの「婦系図」の芝居の模様、そして「婦系図の歌」、
戦後のものとして、昭和23年と34年の「石川県民の歌」、第2回金沢国体で歌われ、振付がなされ、
以来、金沢の小学生に根差した「若い力」、奥様が金沢出身である船村徹の「東京だヨ、おっ母さん」、
蓄音器館を訪れた横浜のご夫婦のエピソードが詰まった「有楽町で逢いましょう」、
昭和28年の二水高校合唱部の、合唱コンクール全国優勝時の「醒めよや風琴」、といった
数々の、石川、金沢ゆかりの歌(歌以外にも、演説、芝居)を、お持ち込み頂いた蓄音機、
SPレコードで披露して頂いたわけです。
各時代の蓄音機、SPレコードなどの音源、を大切にし、後世に伝え、そしてこれらを駆使して、
人々を和ませ、感動させ、音楽文化、音文化の大切さを人々に伝える「金沢蓄音器館」様の為す偉業に
感服せざるを得ません。
そして、その「金沢蓄音器館」を運営・発展ならしめた、八日市屋館長様への敬服の念を、
新たに深めることとなった本日の講演会でした。
八日市屋館長様、本日は有難うございました。
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2024年8月17日
安藤 竜 先生、発酵食、スシ、の歴史全貌を語る
安藤 竜先生の、当講演会におけるご登壇も5回目となりました。
(1~4回とも、たいへん人気を博した講演でした。)
安藤先生の、これまでの講演は江戸時代の、金沢を中心とした加賀藩の
経済的側面を述べたもの、将軍献上における加賀藩の特産品を
述べたもの、鳥獣害に対処すべき、鉄砲所持許認可に関わる行政的なもの、等々
まことに多岐に亘るものでした。
今回(令和6年8月17日)のテーマは「加賀藩領のスシと発酵食文化」という
もので、加賀藩についての、食を通した民俗学的側面からのアプローチ
のように思っていました。
(安藤先生は、今、「かなざわ食マネジメント専門職大学」で教鞭を
執っておられるので、そちらの分野との関連が大きいのでは、思っていました。)
ところが、講演を聞いていて、民俗学的側面からの講演だとの予想に反し
まさに、ピンポイントに、発酵食、スシ(安藤先生は、スシに「鮓」、「鮨」の
二つの字及び源流があるので、これらの総称の意味で、当講演では「スシ」と表記、と
おっしゃられた。)に焦点を当てた講演でした。
筆者は、本日の安藤先生の講演のジャンルを的確に言い表せませんが、
「食物史」とでも言い得ましょうか。
講演に際しての配布資料は、安藤先生の、いつもながらの詳細かつ緻密な
もの、でありますので、発酵食の単なる歴史紹介にとどまらぬ、各発酵食
の「レシピ」にまで迫り来るものでした。
「スシ」のルーツ、加賀藩領の魚醤・塩辛、「スシ」の歴史、
江戸時代の「スシ」のレシピ、加賀藩領の「スシ」、と話しは展開されました。
「スシ」に関しては「ナレズシ」から今日の「にぎりズシ」までの
大きな変遷の流れを説いて頂きました。
聴衆の、皆 「なるほどなるほど」の連続でした。
1時間半の短時間で、これほどの量の知識を伝授して頂ける講演は
ざらにはありません。
ここまで、聴衆の皆に納得感を与えて頂ける講演は、そうそうありません。
安藤先生の講演の特徴として特筆すべきは、講演に際して提供して頂ける、説明資料の
明解さ、及びその内容の充実度合いです。
そのような講演説明資料を頂けるだけでも、大変なお得感があるのです。
このような、明解・精緻な資料に基づく講演ゆえ、聴衆の知識習得の
捗り、は最上位に位置づけられるものだと思います。
講演後、安藤先生と少し話する機会がありました。
なんでも、安藤先生はお仕事の都合上、近々、生活拠点を金沢から、兵庫に
移される由。
今後の、先生の当講演会でのご登壇が危ぶまれる事態が心配されましたが、
今後も来沢の機会もおありになる、とのことで、スケジュールを合わせて
今後の当講演会へのご出演も可能、とお聞きし、ほっとした次第です。
安藤先生、本日は有難うございました。そして
今後もまた、当講演会をよろしくお願いいたします。
安藤さんの、金沢で、石川で、果たされた業績は皆、忘れません。
安藤さんの、当地で遺された足跡は皆、忘れません。
心から感謝 !!!
2024年7月6日
池田先生、加賀藩の知の系譜につき熱弁!
加賀藩については政治面、経済面においては研究の度合いが進んでいることは周知の事実
ですが、これが学術面、教育面においてはどの程度の研究がなされているのか、
ということについてふと、思いを致すこともあるのではないでしょうか。
江戸期、かの新井白石をして「加賀は天下の書府」と言わしめ、明治期、第四高等学校を
を誘致するのに成功し、多彩な分野での学者、文人を輩出した学都金沢、そして石川、
富山県。
金沢、石川、富山、の学問を尊重する土壌は、加賀藩の時代にその源が求められるわけですが、
本日(7月6日)の、池田仁子(とよこ)先生の講演(「加賀藩の知の系譜~加賀藩の知識人は
いかにして当時の社会で活躍したか~」)にて、そのあたりの事情を大変分かりやすく
豊富な資料により詳説して頂きました。
(池田先生は金沢市文化政策調査員としてご活躍されている近世史家です。
近時、「加賀藩知識人の躍動~近世社会と学者たち~」を出版されています。)
池田先生は、当講演に当たって10ページの大部にわたるレジュメを用意され、
これにそって今回のテーマを熱く語られ、詳説されました。
先生の講演(講義といった色彩の方が強い)は、「加賀藩の知の系譜」を明らかにし
そして、加賀藩から近代の、石川、富山へと続く、当地域の学問的土壌の成り立ちを
明らかにするための大考察、及びその過程とお見受けしました。
先生の講演は、1.「知識人の具体相」、そして2.「頂上的知識人から日常的知識人へ」
と、「学の流れ」の受け継がれて行く様を、豊富な事例を通し、その上での確乎たる推論で
解き明かす方法論で進められた、と思いました。
1.「知識人の具体相」では、儒者の金沢城内での活動ぶり、鶴来出身の儒者「金子鶴村」
の蘭学を受容してゆく様を説かれました。
また、金沢城下の医者の活躍、向学の様子を説明されました。
さらには、金沢のみならず、小松地区の学校設立状況、教育状況を説明され
小松地区の、学問熱の旺盛さを説明され、大いに興味を抱かされました。
(小松地区の教育施設としての「修道館」、「集義堂」の存在。)
2.「頂上的知識人から日常的知識人へ」
ここでは、主に陽明学者「中江藤樹」と需学者「熊沢蕃山」の両巨頭を取り上げられ、
これらの知識人から加賀藩への時代的・地域的・階層的拡がりを考究する、といった
アプローチ方法を先生は採られた、と感じ取りました。
様々な資料から、藤樹・蕃山から加賀藩領内の知識人への、「学」の受容
が読み取れる、と先生は喝破された、と感じ取りました。
蘭学については、第11代治脩、12代斉広、13代斉泰の歴代藩主達も
この学問を受容した、とのことでした。
このようにして、加賀藩の儒者、医者、科学者、教育者達は、それぞれの
本分の分野において藩社会の中で活躍し、近代への礎を築いたのだ、と
先生は結びました。
学都金沢は、このような淵源の上に成り立っているのだ、としみじみ
感じ取ることができ、また、誇りも一層高く持たねば、の心持にさせられました。
池田先生、本日は大部の講義、大変有難うございました。
事実解明が、精緻な領域にまで亘っていない場合、先生は、「今後要考察」とか
「さらに鳥瞰する必要あり」、とか、「詳しい考察が必要」、とか、
「さらに多くの事例を見ていくことが肝要」などという具合に、いたるところに課題を
設定されていました。
先生の、このような若々しい、エネルギッシュな学者としての態度、気構え、に
接することが出来たことによって、大きな感銘を受けたことも、是非とも
付言させてください。
池田先生の、今後の更なるご発展を切望いたします。
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2024年6月30日
「『寅さん』」の世界を、今一度振り返ろう、考えよう」展
昭和44年(1969)年から平成7年(1995年)まで、48作にわたって
撮られた「男はつらいよ」シリーズ(松竹)。
もっとオリジナルを辿れば、昭和43年10月~44年3月にかけての放映の
、フジテレビ制作のテレビドラマ「男はつらいよ」に行きつきます。
「男はつらいよ」シリーズ第9作「男はつらいよ 柴又慕情」は昭和47年5月
ここ金沢でロケが行われました。(封切りは同年8月5日)
マドンナ役は、大女優の吉永小百合さんです。
“寅さんの憧れの人”ファン投票で第1位に輝いた吉永小百合さんをマドンナ役に迎え、
金沢を舞台に寅次郎の叶わぬ恋の行方を描いた作品です。
全48作は全国各地がロケ地に選ばれ、日本各地の美しい田園風景、お祭りの風景、
土地土地の人々の人情も描かれ、観る人の心を和ませ、日本の良さを
余すことなく描き切った映画だったと思います。
金沢でのロケはこのように1回だけでしたが、吉永小百合さんをマドンナ役に迎え
珠玉の名作であったと思います。
たった1度の金沢との縁でしたが、深く我々の心に感動を呼び込んだ「寅さん」を
ここ、尾張町老舗交流館で解き明かしたいと思います。
どうぞ、お付き合いください。
また、寅さんについての、皆さまの感想をお寄せください。
寅さんは、テキ屋であり、フーテンの寅とも自ら発するように
自由な旅人、風来坊でありました。
生まれ、育ちとも東京は葛飾柴又の江戸っ子。
商売の旅から、叔父(おいちゃん)、叔母(おばちゃん)の営む
葛飾柴又の団子屋(とらや)を懐かしみ、家族の暖を
求めて、団子屋に帰省しますが、たいていそこで行き違いの
トラブルを引き起こし、家族、近所の住人達に悪態をつき、騒動を引き起こし
、ぷいっとまた旅に出る、というパターンの繰り返し。
旅先で、あるいは、柴又での帰省中に、容子の良い女性が目に留まると
気になり、即 恋愛感情を持つか、最初悪態をつくも
恋心を抱いてしまうか・・・・そして最後は失恋の底に沈む、
といったワンパターンのような流れが、この映画を浅く見れば
感じ取れます。
演ずる役者「渥美清」さんの芝居の面白さ、脇を固める名優たちの
コメディーな、また人情味たっぷりの演技の良さ、でもって
面白い映画だなぁ、と感じた人たちも勿論多く居合わせたことでしょう。
しかしそんな浅いところでこの映画が絶大な人気を博したのではないと思います。
そんなところだけにこの映画の存在価値があるのではないと思います。
当展示において、幾つかの例を挙げていますが、寅さんと、劇中の登場人物との
言葉の遣り取りの中に、今、日本人が忘れ去った、日本人特有の人情、
日本人特有の思いやり、日本人特有の潔さ、日本人特有の犠牲的精神、
といった数々の美点があるのであります。
現代に見る、
我欲が先行するあまりの様々な事件(いじめ事件、ストーカー事件、殺傷事件、経済犯罪等々)は
寅さんが体現した、日本的美徳のかけらでもあれば、起こるはずのないものばかりであります。
「男はつらいよ」の寅さんに今一度思いを馳せることによって、一部荒んだ日本社会を
世直ししていきませんか、この展示をごらんになって、寅さんを、寅さんの良さを
語り合いませんか、
心が荒んだ人間が多くなった今日の日本こそ、「寅さん」の良さ を思い起こし
「寅さん」に学ぶべきではないでしょうか。
当展示は令和6年7月1日(月) ~ 10月16日(水)まで
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2024年6月15日
竹松 先生、加賀藩上級武士家の「部屋住」の様子を詳説
5月31日のこと。
百万石祭りの初日です。
メインイベントの「百万石行列」の行われる前日であります。
夕刻近く、ご夫婦と思しきお二人が、老舗交流館に入ってこらました。
型どおり「どちらから来られましたか」とお聞きをし、「東京からです」との返答を
頂きました。
「百万石まつりをご覧になりに来られたのですか」とお聞きすると
「そうです。娘がパレードに参加しますので」と答えられました。
百万石祭りのパレードにはいろんな役割があるから、何の役だろと
思っていてお聞きすると「お松の方、の役です」と答えられました。
「・・・・・・・・」 ほんの一刹那頭をフル回転させ、
「ええっ、『夏菜』さんのご両親ですか!!!」、と私は声高に叫んでしまっていました。
あの時一緒に写真でも撮っていれば、と後で悔やまれてしかたありませんでした。
祭りの数日後、「お松の方」役の”夏菜”さんを絶賛する声を多く聞きました。
( そういえば、お母様は、やはり”夏菜”さんのお母様である、と明らかに思わせる
お美しさでしたね・・・今から思えば。 )
藩祖 前田利家と同じくらい市民、県民にリスペクトされている「お松の方」。
利家との間の男子は、利長と利政の二人。利長には男子無く、利政の
系統が今につながっており、それが前田土佐守家なのです。
この前田土佐守家資料館は、この、お松の方の次男の前田利政を家祖とする
前田土佐守家所蔵の資料を保管、及び展示する施設です。
本日(令和6年6月15日)の講師は、この前田土佐守家資料館の
副館長として大変ご活躍の、竹松幸香先生なのです。
テーマは「加賀藩上級武士家の『部屋住』」。
初めに、竹松先生は、前田土佐守家の歴史、系譜をさらっと説明され
本日の本題に入られました。
筆者(交流館係員)は、勉強不足で「部屋住」という言葉に接したのは
初めてでした。
(講演会参加の方々の多くは、きっと先刻ご承知のことだったでしょう。)
家督を相続していない嫡男や、次男以下で家督相続できない者で、
分家・独立せずに親や兄弟の扶養を受けている者、を「部屋住」という
と説明されました。
江戸時代の上級武士家には、現代と違い多くの子供がいましたので
当主になれない武士はかなりいたようです。
今でいえば、大人になってもそのまま家にいるわけですから「パラサイト」
とでも言えそうです。
何か、不遇な運命のもとに生まれた感、に満ちています。
ことに、加賀八家のように上級武士家での「部屋住」身分の者は
プライドが高く、どこへでも出仕するわけにいかず、部屋住のまま
暮らす、ということが多くなっていたようです。
「部屋住」身分の武士、ことに加賀藩上級武士家の「部屋住」の
武士には、不遇な、悲哀を帯びたイメージが付きまといます。
ネガティブなイメージですね。
前田土佐守家6代当主 前田直方は、実弟の直起、直昌についての不憫さを
「意見書」をものして藩に訴えたことがあったそうです。
但し、上記 直起、直昌はただの閑人に終始したわけではなく、文筆に、
また和歌に長けた教養人の側面もあったことを竹松先生は強調されました。
また、先生は例を奥村家に取り、奥村栄通(奥村宗家13代当主)の部屋住時代の
日記を紹介されました。
これによると、不遇、悲哀のイメージを払拭する生活(行楽、狩猟など)も
伺えます。全くの「埋もれ木」の生活ばかりではなかったんですね。
竹松先生紹介の、上記の古文書、古記録により加賀藩上級武士家の「部屋住」の
様子の一端が伺えます。
「当主」の活躍の様ばかりに光が当たるのが一般的な歴史の物語ですが
生まれる順番で、当主たりえなかった次三男達についての暮らしぶりはには
光が当たることな少ないようです。
「部屋住」武士の状況、さほどの不遇ばかりではなかったのだ、といった暮らしぶり
の一端を、竹松先生は適切に選別された古文書、古記録紹介により、我々に
説示して頂きました。
竹松先生、本日は加賀八家たる上級武士家家族についての興味あるお話
有難うございました。
万雷の拍手にて終演となりました。
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2024年5月24日
「百万石まつり」のルーツを訪ねる
金沢百万石まつりは、加賀藩祖・前田利家公が天正11(1583)年6月14日、
金沢城に入城し、金沢の礎を築いた偉業をしのんで開催されています。
今年で第73回目を迎えました。
尾山神社での封国祭に合わせて、大正12年から昭和20年まで金沢市祭
として行われてきた奉祝行事がルーツとされています。
終戦後は進駐軍の指導により昭和21年から6年間、尾山まつりとして
尾山神社奉賛会によって開催され、その後 昭和27年からは金沢市と
金沢商工会議所が中心となって「商工まつり」として開催されることに
なりました。
これが「金沢百万石まつり」としての第1回目となります。
その後、豪華絢爛な百万石行列をはじめ、400年にわたり受け継がれてきた
金沢ならではの伝統ある行事が賑やかに繰り広げられる現在の姿に発展して
来ました。
当祭典の一番のメインイベントは何といっても豪華絢爛な百万石行列です。
(1999年(第48回)までは「百万石パレード」と称し、
2000年(第49回)から現在の呼称の「百万石行列」となりました。)
当祭典の系譜は以上の如くですが、
祭典の主なイベントであるパレード等の内容部分については、
当展示の、「旧藩祖三百年祭等各町催物画」が示している、
全町をあげての賑わいの様子、がルーツの一つとも言えましょう。
(「旧藩祖三百年祭」は明治32年(1899)に開催。)
当時の金沢市民の、全町を挙げての、熱気ほとばしる祝賀の様子から
「金沢百万石まつり」の原形に思いを馳せてください。
展示期間は令和6年5月25日(土) ~ 6月30日(日)まで
協力 : 金澤ふるさと倶楽部代表 伊藤 様
株式会社 石野テント 様
金沢市立玉川図書館 様
<以下は百万石まつり、変遷メモ>
1958年(7回)百万石パレードは6月14日開催。
1984年(33回)利家は男優の鹿賀丈史。1986年から男優に定着。
(お松 の方は2001年(50回)女優の斉藤慶子。2008年(57回)から
女優が定着。)
1980年(29回)パレードは市役所がスタート地点になった。
2000年(49回) 6月第2週が開催になった。
2006年(55回)鼓門がパレードのスタート地点になった。
2007年(56回)6月第1週が開催になった。
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以下の絵巻は、「利家」と「まつ」を祀る尾山神社の遷宮を祝う行列の絵図。
( 明治6年11月22日 翠山 画 )
城下を挙げて前田家の慶事を祝った、藩政期の「盆正月」を連想させる貴重な資料。
(2014年、尾張町旧家から発見された絵巻。)
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以下に 各展示があります。
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2024年5月18日
石田さん、力道山を語り、讃え、ロマンを伝える
2024年5月18日、日本プロレス史研究家 石田順一さんの
「伝説と謎に包まれた ”戦後最大のスーパーヒーロー” 力道山」
と銘打った講演会がついに開催されました。
石田さんは当「歴史・伝統文化講演会」にては、近江町市場の不思議
及び300年の歴史 に関してすでに、「近江町300年史編集委員長」として
4度講演をされています。
おなじみの、あの石田順一さんです。
この講演に先立って、2月11日から5月22日までの期間、石田さんの
コレクションによる「プロレス歴史展」を老舗交流館内において
開催をしております。
「戦後、敗戦によって打ちひしがれていた日本国民を
勇気、元気づけてくれた力道山が、能登半島大地震の
震災対応の激務に日々取り組まれている馳知事を経由して、
天国から被災地の人々に対し、再び勇気、元気を届けてもらえぬか」、
という趣旨の企画展示です。
会期中、力道山夫人の田中敬子さん、アントニオ猪木の弟さんの
猪木啓介さんが当展示をご覧になりに来館されたことは、このブログでも
お伝えしました。
また、ご自身に関わる展示もあるよしみで、馳知事も我々を激励に
来館されたことも、当ブログでお伝え済です。
さて、このような豪華な前触れを履んでの講演会。
会場は石田氏の貴重な展示物に取り囲まれている老舗交流館です。
臨場感 満点です。
参加者の方の中には、三菱電機の掃除機を講演会会場に持ち込まれ、
昭和時代のプロレステレビ中継でお目見えしていた、当時の三菱電機掃除機の
「風神」よろしく、ムードを盛り上げて下さる、サービス精神旺盛な方もおられ
会場は否が応でも大いに盛り上がりました。(写真の、手前に見える掃除機がそれです。)
( 当時は、試合前 若手レスラーが、スポンサーである三菱電機の掃除機(風神)
を使い、リングの掃除をしていました。ああ 懐かしい ! )
雰囲気満点の会場の中で、石田さんの力道山論、プロレス論がさく裂しました。
氏の、人生の中で最も精魂込めて(と筆者には思われました)調査、研究を
尽くして来た人の、真骨頂が伺えた講演会でした。
冒頭ご紹介したようにテーマは「伝説と謎に包まれた ”戦後最大のスーパーヒーロー” 力道山」
です。
力道山のプロレス界で果たした、多大な業績・功績を、氏が克明に調べ上げ得たデータを
もとに述べられました。
力道山の海外での試合のうち、報道機関により記事内容が異なっていた
ものが何例かあり、それらを氏は丹念に多くのメディアの記事に当たり真実を
突き止めたことを紹介されました。
また、稀代の強豪柔道家である木村政彦との試合の顛末を詳細に
語られ、この話の中で、氏のプロレス観を余すことなく語られました。
また、試合とは別に、力道山の実業家としてのセンス及び実績をも紹介されました。
講演全体を通して
そこには溢れんばかりのプロレス愛、力道山愛が伺われ、聴衆の
胸を打ったことでした。
力道山には、その「出自」、そして、その非業の「死」にまつわる謎があります。
これらに関しては諸説粉々です。
氏は、これらのことにつき、かなりの深い見地から、淡々と説明を試みられましたが、
ある程度のあたりで、説明を収められました。
昭和の日本の、大英雄 、大ヒーローの力道山には確かに「謎」の空気が
覆っています。
これらの謎のヴェールをはがして、彼の真実を赤裸々に露わにしたい、と
考える人もいるでしょうが、彼が纏っているのは謎のヴェールだけでなく「ロマン」の
ヴェールもあります。
石田さんは、力道山の纏う「ロマン」を尊重したい、との意が大きく
あったように受け取られました。
本日の1時間半、石田さんは、昭和期の「プロレス」のロマン、「力道山」のロマン
を我々(聴衆)に大いに語って下さった、と感じ取りました。
盛大な拍手が会の終わりを告げました。
次回は何を語ってもらえるのだろう・・・そんな雰囲気の中で会は終わりました。
この講演会のために、はるばる新潟から来られた男性の方の面持ちの中にも
次回の、石田さんに対する期待の気持ちがこめられていました。
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