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2025年11月22日

猪谷先生の大拙愛あふるる講演

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鈴木大拙館 学芸員の猪谷聡さん(以下 猪谷先生と称させて頂きます)の講演は
2022年12月18日以来3年ぶりです。
 
前回テーマは「『思索』のすゝめ ~鈴木大拙をめぐる~」でした。
 
そして今回(2025年11月22日)は「 火打石のころ ―  鈴木大拙、金沢を語る ー 」
というテーマです。
 
大拙が、よって立つ基盤としての、愛してやまない「金沢」がそのタイトル中に
入っています。果たして猪谷先生は何を語って頂けるのか。
 
大拙の世界観と金沢の関係は、如何なるものなのか。
以下に本日の講演の様子を報告いたします。
 
先生は、大拙の足跡を簡便にして明瞭に説明されました。
先生は、この話の中で、大拙の父、母の存在、加賀藩の
教育的気風の存在、第四高等中学で得た友人の存在、が
大拙という人物をして、思想界の巨人たらしめた重要ファクター
の一つだと指摘された、と筆者は解しました。
 
大拙は金沢市本多町生まれです。
金沢にいたのは約20年くらいでした。
 
あとは、東京、神奈川、京都、そして欧米での暮らしでした。
 
このように95歳の人生の中で、金沢での暮らしは、僅かなものです。
 
しかし、先生が語るに、英語を自在に操る大拙は、こと日本語となると
金沢訛りがずっと抜けなかったそうです。
 
否、あえて金沢訛りから脱しようとは思っていなかったのかもしれません。
むしろ金沢(弁)訛りに誇りを抱いていたのでしょうか。
 
本日のテーマである「 火打石のころ ―  鈴木大拙、金沢を語る ー 」は
金沢での幼少期の思い出のよすがなのです。
 
野田山の、母と行く父の眠る場所、への墓参の時の思い出の象徴が「火打石」なのです。
 
線香をあげ、蝋燭を灯す際の火仕事での(当時の)、必需品である「火打石」が
幼少期の金沢の思い出の象徴的存在なのでした。
 
母とともに行き、帰りに供え物を分けてもらったことが大そう楽しみだったそうです。
 
「ふるさと」と言えば、「火打石」とともに母との墓参の楽しかったことを
思い出したのでしょう。
 
拠って立てる大地、の感触。ただの広漠と感ずる地、というだけでは具体性に欠ける。
己が踏みしめる大地との連携の感触、こういう具体的事象の認識。
こういうものを喚起してくれるものが「ふるさと」だと大拙は
言いたいのでしょうか。
 
本日の猪谷先生の講演から、筆者はこのような感想を覚えました。
私の、不理解かもしれません。そうでしたら猪谷先生 どうかお許しを。
 
鎌倉 東慶寺には、大拙の墓があるのですが、その近くには
西田幾多郎、安宅弥吉、出光佐三、ら生前交友の篤かった人々が
眠っているそうです。
地縁、人の縁の強さを感じますね。
 
僅か20年の金沢生活でしたが、大拙にとっては金沢はかけがえの
ない「ふるさと」であったと思われます。
己の根を擁立させ、その後の、己が人生の幹への養生をなした金沢、
という「ふるさと」を大拙はこよなく愛し、誇りに思って
いたことだと思います。
 
猪谷先生の講演は、郷土が生んだ思想界の巨人 鈴木大拙 を
もっともっと我々が顕彰し、敬愛し、彼の思想に触れて、
もっともっと彼に学んで、皆、豊かな人生を歩むべし、
と訴えているような気がしました。
 
猪谷先生、鈴木大拙先生をもっともっと皆に紹介され、皆を
もっともっと啓蒙して頂けることを心からお願いいたします。
 
本日は大変ありがとうございました。
是非、続編をお願い申し上げます。

2025年10月18日

山岸先生、金沢の福祉を築いた偉人達を大熱弁

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金沢ふるさと偉人館の副館長 増山 先生の講演による
「高峰譲吉と渋沢栄一」の偉業、両者の関係性、についての
お話は昨年6月10月19日のことでした。
 
皆さんのふるさと愛が一層強まった講演会でした。
 
それから、ほぼ1年後の令和7年10月18日の今日。
同じ「金沢ふるさと偉人館」学芸員の山岸 遼太郎 先生による、
ふるさと愛、ふるさとに対する誇り、を一層強める講演が
行われました。
 
題して「金沢の福祉を築いた偉人達」。
 
金沢には、藩政期から「御救小屋」なるものが存し、これは200年近く
加賀藩によって運営されてきました。
 
金沢には藩政期から「福祉」の伝統があったわけです。
藩の経営ですから、いわば公的福祉ですね。
 
それが、明治になって加賀藩の諸制度の廃止とともに
この公的福祉は、消滅しました。
 
しかし、生活困窮者は増加の一途。
金沢には、社会においてそういう生活困窮者、障害者を放っておけないとする
気風の、情の熱い篤志家の人たちが、明治~昭和にかけて幾人もいました。
 
時代順に挙げますと、小野太三郎、井上友一、今田與三松、安藤謙治、浦上太吉郎、
荒崎良道、の6氏です(うち、安藤、浦上、荒崎の三氏は「善隣館の三傑」と
呼ばれています)。
 
山岸先生はこれらの6名の、社会福祉に大貢献した偉人達を列挙され、
彼らの福祉活動への取り組みを詳細に語られ、その功績を讃えられました。
 
金沢の今日の、陽風園、善隣館は、上記の偉人たちによってその礎が築かれたわけです。
 
現在はいずれも社会福祉法人ですが、設置の当初はいずれも、上記偉人の彼らが私財を
投じての、尊い社会貢献でした。
 
世知辛い今日から考えますと、なんと立派で尊い方々がいたのだろう、と驚きの
念を禁じえません。
そして
このような社会福祉活動が藩政期から今日まで続いていることは
金沢の大きな誇りと言えましょう。
 
山岸先生の講演は、明瞭で、闊達で、そして熱にあふれていて、
聴衆をして一瞬たりとも飽きさせることのない素晴らしいものでした。
 
山岸先生、次年度も、是非とも郷土の偉人たちの功績、活躍を
語って下さい。
 
大変有意義な秋の午後を、有難うございました。

2025年10月4日

近江町市場展

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近江町市場展

 協力  近江町市場商店街振興組合
     金澤ふるさと倶楽部 伊藤 正宏 様
 後援  北國新聞社

 期間  令和7年10月5日 ~ 令和8年1月15日
 

令和 3(2021)年に開設三百年を迎えた近江町市場は、「金沢市民の台所」として
皆様に親しまれ、金沢の高い食文化を支え続け、いまや観光スポットともなっている
人気の市場です。
いつ訪れても、春夏秋冬いろんな旬の食材に囲まれ、威勢の良い売り声が飛び交い、
活気と魅力にあふれた市場は、金沢の大事な財産であり、大切な宝物です。
 
 そんな近江町市場の、いまむかし、風景、を写真やパネル、資料でご覧いただき、
さらに市場の歴史、地理、風物、文化などを ”不思議” という視点から捉えた
「近江町の不思議」(くノ一、穴、標柱、惣構史跡など)を紹介いたします。
近江町市場をもっと深く知っていただき、さらに身近に感じていただき、
そして近江町のファンになって頂きたいと願って企画した「近江町市場展」です。
 

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2025年9月20日

竹松先生、江戸時代の金沢の「蔦重」的世界を熱弁

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ハイテク機器を利用しての、電子書籍ばやりの昨今ですが、
紙の書籍の方が良い、という人もいまだ多くいます。
 
紙媒体であろうが電子媒体であろうが、本は本です。
 
知と情報を我々に届けてくれるものに変わりはありません。
書籍(本)は文化の担い手としての筆頭に変わりはありません。
 
そんな書籍(本)をめぐる、江戸時代における金沢の状況は
どうだったのでしょうか。
その時代の金沢における出版事情はどうだったのでしょうか。
 
そんな疑問に答えて頂いたのが本日(令和7年9月20日)の、前田土佐守家資料館の
副館長 竹松幸香先生の講演でした。
おりしも今 放映中のNHK大河ドラマは、江戸時代の出版事情を物語った
「べらぼう」(蔦屋重三郎の活躍を描いている)です。
 
本日の竹松先生の講演は、その意味で時流に乗っかっているのです。
 
テーマは、まさに「江戸時代金沢の出版」です。
 
( 竹松先生は、令和6年6月15日以来のご登壇です。
前回のテーマは「加賀藩上級武士家の『部屋住』」でした。 )
 
先生は、冒頭 「日本の出版とその歴史」を俯瞰的に説明され
本題に入るための知識整理をされます。
これがかなり勉強になりました。
 
以下、江戸時代の金沢の出版事情についての、先生の長年の研究の成果を
いっぱいいっぱい披露して頂きました。
お聞きしていますと、本テーマは、先生が、学生時代から
取り組まれていた研究テーマとのこと。
 
本日我々は、たいへんな有難い講演に接しられたわけです。
 
先生のご用意された「江戸時代金沢の本屋」、「金沢の出版物一覧」は
詳細かつ膨大なもので、調査に当たっての先生のご苦労が偲ばれます。
また、加賀八家奥村宗家第13代当主奥村栄通の、読書目録の一覧表
には、圧倒されました。
 
また
江戸時代の、出版に至るまでの手続き、費用の大変さを詳細に
語って頂き、当時の本の値段のたいへん高い由縁がよく解りました。
 
以上、先生の本日の講演は、多岐詳細にわたりますので筆者には
到底、書きつくせません。
 
前田土佐守家資料館の夏季企画展
  「江戸時代金沢の出版ー本をめぐるいろいろ」は
9月28日まで開催中です。皆さん、まだの方はまだ間に合いますよ !!!
 
先生のご案内により
昔の出版の大変さを学ぶことが出来て、本というものに対する
リスペクトの念が高まった人も多かったのではないでしょうか。
 
本日、竹松先生の講演は、終始楽しい雰囲気に満ち満ちていました。
やっと涼しくなった今日この頃ですが、先生の熱い講演は
真夏の熱気の様相でした。
竹松先生、本日はたいへんありがとうございました。

2025年8月16日

本康先生 第9師団と日露戦争及びその影響を語る

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本日(令和7年8月16日)は金沢星稜大学特任教授 本康宏史 先生の講演の日であります。
 
先生の講演は、今回で数えて4回目になります。本日のテーマは「日露戦争と第9師団」です。
 
日本の近現代史、地域史、産業史のスペシャリストとしての先生の講演は毎回耳目を
そばだてます。金沢、石川県全体の、近現代の成り立ちの道程を如実に語って頂き、
当地に対する誇りを一層掻き立てるものがあるからです。
 
今回のテーマは、金沢の軍都ぶりを示す「日露戦争と第9師団」ですが、先生の
講演中、第2回講演(令和5年11月1日)は「軍都金沢と陸軍御用の門前町」
というものであり、その回において、
1.金沢の軍都(軍事基地)としての適格性。
2.金沢において軍事基地があっとことの名残り。
3.軍隊駐留が、金沢にもたらした経済効果(陸軍御用の門前町) 
 
・・・・・という側面から、第9師団等の軍組織を語っていただきました。
 
今回は、軍の、国のために担い、国に貢献した、軍隊としての本来的側面
の解説と予想しておりました。
 
もちろんそういう面からの説明は多々ありましたが、日露戦争での教訓が
後の大東亜戦争における日本の戦争観に大きな影響を与えたことを
先生は指摘されました。
日本の戦争史の大きな流れの指摘でした。
 
以下に本日の本康先生の講演内容を(私(筆者)の主観で)ご紹介します。
 
1.先生は、日露戦争の歴史的概略を述べられました。
概略にとどまらず、奉天、二百三高地などでの日本軍の作戦、戦術を
述べられ、また、石川県各地の神社に奉納された当該戦争の絵図、当時の写真
を用いて説明され、一層この戦争の詳細が理解出来ました。
 
特に、先生が調査団の一員として旅順、大連、奉天を訪れた際に
先生自ら撮られたかつての戦場及び戦争遺産の写真は興味あるものでした。
 
2.第九師団について
第九師団の構成を説明され、日露戦争にあっては、かの乃木希典の
指揮下に入ったとのこと。この戦争においては、当該師団は多数の
犠牲者を出しました。しかし、引き換えに第九師団はその勇名を
大いに上げたのです。
 
3.ロシア兵捕虜の扱い
各交戦の、当該師団が捕虜引き受けたわけですが、第九師団も多数の
ロシア兵捕虜を引き受けました(金沢にては約6000人収容)。
 
それが大変な厚遇をもって接したようです。
食事の豪華さのみならず、観劇、海水浴、芸妓によるもてなし、などが
ありました。
これは、当時の国際法の規定に準拠しての捕虜取り扱いだったようです。
(自国の兵士に対すると同様の遇し方をもって対応せよ、との。)
 
4.軍事力において大いに劣る日本が、大国ロシアに対して勝利を収めて
しまったことの要因を、日本軍の精神力の(他国に)勝ること、勝ったこと、
に求めてしまったことが、後の大東亜戦争、太平洋戦争にまで尾を引き、
影響し、彼我の冷静なる戦力分析を誤らしめ、無謀な戦闘状況を引き起こした
のではないか、と。
 
5.エピソードとして
「正露丸」です。あの下痢止め「正露丸」は、もともと「征露丸」と書いたとのこと。
露西亜をも征する薬、ということだったのですかね。
 
羽咋の神社に奉納されている、日露戦争の戦闘の様子を描いた絵図中に、ロシア兵
を介抱している日本兵が描かれている箇所があります。先生が発見されました。
日本の「武士道」、外国の「騎士道」精神の発露の場面が見て取れます。
 
「殺戮」の場でのことなのに。
その頃は戦争もまだ牧歌的だったのでしょうか。
 
本康先生のこのような講演は、詳細に調べ上げられた史実に基づくこと勿論ですが、
豊富な絵図、写真、といったヴィジュアルなものを豊富に引用されていて
分かりやすさナンバーワンといった趣があります。
 
日露戦争は、我が第九師団の勇名をとどろかせ、日本の国際社会での地位引き上げに
大いに寄与しましたが、他方で、この時の自信の根拠が(精神論)、後の戦争での
悲哀に繋がったのでは、と本康先生は語られたような気がしました。
 
本康先生の、近現代史論の、ほんの一端を我々は伺ったにすぎません。
ほんの一端ではありますが、知識を得られた満足度合いは夥しいものがあります。
 
本康先生の、豊富な研究成果・学識に触れられる喜びを我々は噛みしめねば
なりません。
 
本康先生、来年もまたよろしくお願いいたします。
本日は大変ありがとうございました。
 

2025年7月19日

東條さんの「加賀万歳」が心地よく響いた午後

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本日(7月19日)は、金沢くらしの博物館 学芸員 東條さやか さんの
久々の、当講演会ご登壇です。
 

東條さんとしては今回で3回目の講演となりました。
第1回目は平成27年11月21日、第2回目は平成28年1月16日でした。
 

ほんとうに久しぶりですね。
 

その第1回目は「加賀万歳を学ぼう」がテーマでした。
今回のテーマは、その発展形ともいえる「金沢町づくし~加賀万歳と金沢の旧町名を
中心に~」というものです。
 

生活に根差したテーマ、ほのぼのと郷愁を誘うテーマ、また、郷土愛をかきたてるテーマ
の数々を、多くの企画展で取り上げられている「金沢くらしの博物館」の
東條さんのことですから、今回のテーマも、郷土愛をかきたててくれるものだとの
期待をもって講演会に臨みました。
 

講演が終盤の佳境に入ったころ、東條さんの真骨頂が発揮されました。
それまでは、各地方に伝わる万歳の発祥、特徴の説明を
座学的に講じられてきましたが、万歳はやはり実演だとばかり、
加賀万歳を謡う東條さんの美声が館内に響き渡り、我々聴衆を圧倒しました。
 

座学において、各地方に伝わる万歳の特徴、加賀万歳のこれらとの
違い、特徴、を詳しく解説頂きましたので加賀万歳の予備知識を得てからの
拝聴でした。
 

テーマにある通り、本日の講演の肝は、金沢の旧町名が
加賀万歳に如何にうまく織り込まれているか、謳われているか、
それも、加賀万歳「金沢町づくし」という曲の一節一節の解説を
旧町名地図と照らし合わせてのものでしたから、大変分かりやすく
皆の腑に落ちたことでした。
 

そして最後の、加賀万歳「金沢町づくし」を全体通して、美声で詠じ謡われた
圧巻の実演でした。
東條さんの、講演終盤での「金沢町づくし」全体通しての実演前に、一節一節の詳細な
解説を聴いていたことにより、ほぼ内容を理解し得ていた我々の心には、
まことにすっと入ってくる、「金沢町づくし」朗々として堂々、の実演でした。
 

加賀万歳の良さをしみじみ感じさせて頂き、「金沢町づくし」の中に
ユーモアたっぷりに織り込まれた金沢旧町名の、味わい深さ、城下町らしさ、
を丁寧に届けて頂いた東條さんに感謝いたします。
 

東條さん、本日はたいへん有難うございました。
厚く御礼申し上げます。
そして「金沢くらしの博物館」を今後さらに我々の心の拠り所
にさせて頂きたくお願い申し上げます。
 

2025年7月5日

企画展 ー 鬼神面と道具たち ー

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企画展 ー 鬼神面と道具たち ー
 
協力 能面アート倶楽部 様
後援 北國新聞社
 
(開催年月日):2025年7月6日 ~ 2025年10月3日
 

 金沢は「空から謡が降ってくる」と言われるほどの能の盛んな土地柄。
かつて、秀吉、家康、とともに能を舞ったのが前田利家。
その前田利家が当地に能の種をまき、5代綱紀が加賀宝生の礎を築きました。
そんな能において欠かせない重要小道具が「能面」です。
今回は「能面アート倶楽部」様のご協力で、能面展示の企画展を行います。
 
能は、平安(794~1185)、鎌倉(1185~1338)時代に”猿楽”と呼ばれ、
曲芸、物まね、寸劇、滑稽芸等の様々な芸が劇形式に変化し、現在の能は
室町(1392~1573)時代に、”観阿弥”、”世阿弥”親子が足利義満に気に入られ
、その強力な援助のもと、より発展し、洗練されたものになって行きました。
 
桃山(1573~1600)時代になると、大名や武将たちが能を習い、舞うことを
楽しむようになります。能は武士たちのたしなみとして受け継がれ、武家の儀式(式楽)
としての位置づけにもなりました。
また、加賀藩においては能が町民にも奨励され、上述の「空から謡が降ってくる」という
形容も生まれてきました。(庭師や大工が作業をしながら”謡”をくちずさむ、ことから)。
こうして加賀藩においては能は一層盛んなものとなりました。
 
加賀藩5代前田綱紀は、5代将軍徳川綱吉に倣い、それまでの金春流から
宝生流への転流を図りました。宝生流は加賀藩の絶大な庇護を受け
「加賀宝生」という言葉が生まれるほどの、宝生流の一大拠点となったわけです。
 
さて、「能面}ですが、能面は、各流派(観世、宝生、金春、金剛、喜多の能楽五流派)
の家元に存在した面、または、各大名家が所持した面、を模写模作して作るのが
慣習であり、偽物という概念は無く、”写し”として公認されているのです。
 
能面は、その作製過程において、能の登場人物の性格を、心をこめて面に
打ち込みます。よって能面を作ることを「面(オモテ)を打つ」と表現します。
 
そんな能面の数々、じっくり、そして、とくとご覧ください。
また、能面制作の道具、材料の木材、等々の展示もしてあります。
きっと、皆さまの興味を惹くこと請け合いです。
是非、ご来館のほどを!
 

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2025年6月21日

藪田さん、秋聲の交遊を俯瞰して秋聲像を明瞭化

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徳田秋聲記念館 学芸員 藪田由梨さんの講演の
日がやって来ました。
 
当講演会において最多出演となる藪田さんは、今回の講演で
8回目を迎えられました。(複数回出演の講師の先生方は
他にもたくさんいらっしゃいますが、藪田さんは他の講師の
方々を圧倒しています。回数のみならず、その存在感においても!)
 
本日のテーマは「 秋聲交遊録 ― 『あらくれ会』の人々 」です。
 
秋聲の、作家仲間からの評価はいかばかりのものだったのか?。
秋聲の、当時の文壇での立ち位置は?。
周囲の人たちの、秋聲へのリスペクト度合いは?。
 
個々の秋聲作品についての味わい、秋聲の、自然主義文学者たる由縁、
等々は今までの藪田さんの講演により かなり詳らかにされてきました。
 
本日は、上記テーマを通して、徳田秋聲という文学者の、文学界における
当時の、そして今も続く「位置決め」を藪田さんはされた如くでした。
 
尾崎紅葉門下の「四天王」の1人と称され、また、自然主義文学の「四大家」の
1人に列せられたことで秋聲の立ち位置は充分伺い知れています。
 
(これは知りませんでしたが)昭和17年という戦時下の日本において秋聲は
「日本文学報告会の小説部会長」に就いて(就けさせられて?)いたということで
小説家を束ねるには、秋聲の力を借りるのがいちばん、と当局は考えていたのかも
しれません。
 
このことからも、秋聲の、この当時の文壇での立ち位置(重鎮)のほどが
分かります。
 
藪田さんの配布資料には、(二日会 → 秋聲会 → あらくれ会)のメンバーの
人達の、そして、秋聲を大新聞社の小説世界へ後押しした夏目漱石の、秋聲作品評、
秋聲という人の人物評が、満載されています。
 
ことに漱石の作品評はちょっと冷淡です。秋聲作品はフィロソフィーの欠如とまで
酷評しています。
 
でもそれは、小説に何を求めるのか、という価値観の違いから来るものだと
筆者は考えます。
 
菊池寛は、秋聲、正宗白鳥を「人間の描ける作家」と評し、別にそのことが
(そうでない)白樺派の作家との間に優劣を生じさせているものではない、
と評しています。このような客観描写に専心する流儀は、漱石の流儀からすれば
「ごもっともです」でとどまっていて、そこから先の慰み、を与えることが
無い、というふうな結論付けになってゆくのです。これも文学観(文学が担う意義)の
違いから来るものなのでしょうね。
 
田村俊子、宇野千代、林芙美子、の女流作家達の秋聲評(人物評)は
面白い。田村俊子の評は、秋聲のひと通りの優しさを述べていますが、
懐深く、魂を愛撫する温かみに欠けているようなことを述べています。
漱石の云う、「慰藉を与える、とか、リリーブを感じさせるとか」が無い、
との評と似通っていると思えました。
 
小説に見られる自然主義的表現手法が、人間性にもどこかリンクしているのか、
と考えさせられました。
宇野千代は、多作の秋聲を「小説の鬼」とリスペクトしています。
林芙美子はその作品中で秋聲に対する親しみを述べています。
 
川端康成にいたっては、秋聲のその生活において世俗から超然としているところ、
また、作品においても「強いられるところがなにもない」といった、
これもやはり超然的態度の現れを大評価しているごとくです。
 
二日会 → 秋聲会 → あらくれ会へと、変遷を辿った、仲間の集まりの会
が発展していったことは、ある意味、秋聲さんの、人間的にも、作風的にも、
人を魅了する只ならぬ力があったことを物語っていると思いました。
 
そして
文壇的には、大正初期、秋聲は、かの文豪夏目漱石と肩を並べる存在であったことが、
本日の藪田さんの力説で、よ~く解りました。
 
秋聲の、このような文壇での地位の凄さを知れば、秋聲作品を読む喜びは
なおひとしおのものがある、と感じ入りました。
 
本日の藪田さんの力説は、秋聲愛に満ち満ちていて、とっても心地よいものでした。
 
藪田さんのご紹介ですが、
来年の秋から放送されるNHKの連続テレビ小説は宇野千代をモデルにした
ものだそうです。調べましたら、主人公は石橋静河さんだそうです。
 
この女優さんは、私見ですが、超個性的で、超知的で、この役にピッタリ
だと思います。
 
藪田さん期待の、秋聲さん登場シーンがあることを祈ります。
 

2025年5月17日

石田 健さん、紀尾井町事件につき唯一無二の講演

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石川県立歴史博物館 元学芸員 石田 健 氏の講演会(令和7年5月17日)の日が
ついにやってまいりました。演題は「紀尾井町事件」です。
”ついに” とは、「健さん」の当テーマによる講演は、実は令和2年度に企画されていました。
 
それが、あの悪夢ともいうべき(当時猛威を振るっていた)コロナ初年度にぶつかり、頓挫してい
たのでした。
この頓挫は、全くの中止ということではなく、”またの日を”との願いをずっと懐に温めさせていたもの
でした。
 
そして本日、5年越しの念願が実って、石田 健 氏の(本日の)講演が実現したわけです。
 
明治新政府のトップリーダー(内務卿)大久保利通暗殺事件である「紀尾井町事件」は、
明治11年5月14日に起こりました。
 
暗殺犯は、石川県士族の島田一郎ほか4名の石川県士族と島根県士族1名の
計6名です。
明治新政府のトップリーダーの暗殺という大事件にかかわらず、この事件は
通常の歴史の教科書には載っていません。
石田氏は
この事件の明治新政府における歴史的位置づけ、意味合い、このころの士族反乱
それぞれの持つ多様性、を解き明かして頂きました。
また、
首謀者の多くが石川県士族であったことの意味合いを石田氏は詳説されました。
 
石田氏は、深堀りされます。
石川県士族による反政府運動は(建白書をもって意見を訴えても聞き入れてもらえなかった
こと等により)言論をもっての訴求の代りに、武力に訴えるべきだ、との思想が強くなったこと
が、この事件の根底にあるのではないか。
また、幕末の王政復古での政局や、鳥羽・伏見の戦いにおける加賀藩のなすところがなかったこと
による、加賀藩に対する評価の低さの汚名を晴らすべき、といった考えがこの事件の根底には
あるのではないか。
 
メンバーの中には他県の士族もおり、この点に関しては、明治政府の、士族に対する卑劣な
扱い、等がもたらす(士族の)不満がこの事件の(大きく分けて)もう一つの要因だ、ということを
石田氏の説明から感じ取りました。
 
島田たち一派の用意周到な計画によるこの事件。
島田たちに対するシンパの数の多さ、島田たちが深い教養を有していたこと、などなど
この事件は単なるテロ事件ではないことを石田氏は説明されたと感じました。
 
明治初期の、国家としての成長を急ぐあまりの未成熟さが、士族にたいする冷酷な
処遇を施したり、というように、あちこち綻びが出て来ていたような政情下、
まさに政府のトップリーダーたる、新政府の象徴たる大久保に刃が向けられた、と
筆者は解釈しました。
 
当事件に深い造詣を持つ石田氏に、大感服し、打たれました。
このテーマに関する、まさに、日本一(いち)の講演を聴けた思いです。

2025年5月7日

「 百万石まつり と 利家公ゆかりの尾張町 」展

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「 百万石まつり と 利家公ゆかりの尾張町 」

( 後援 北國新聞社 
協力 金沢商工会議所 
金澤ふるさと倶楽部代表 伊藤 様 )

令和7年5月8日 ~ 7月2日まで
 
金沢百万石まつりは、加賀藩祖・前田利家公が天正11(1583)年6月14日、
金沢城に入城し、金沢の礎を築いた偉業をしのんで開催されています。
今年で第74回目を迎えました。
 
尾山神社での封国祭に合わせて、大正12年から昭和20年まで金沢市祭
として行われてきた奉祝行事がルーツとされています。
 
終戦後は進駐軍の指導により昭和21年から6年間、尾山まつりとして
尾山神社奉賛会によって開催され、その後 昭和27年からは金沢市と
金沢商工会議所が中心となって「商工まつり」として開催されることに
なりました。
これが「金沢百万石まつり」としての第1回目となります。
 
その後、豪華絢爛な百万石行列をはじめ、400年にわたり受け継がれてきた
金沢ならではの伝統ある行事が賑やかに繰り広げられる現在の姿に発展して
来ました。
 
当祭典の一番のメインイベントは何といっても豪華絢爛な百万石行列です。
(1999年(第48回)までは「百万石パレード」と称し、
2000年(第49回)から現在の呼称の「百万石行列」となりました。)
 
前田利家公ゆかりの、金沢城正門の大手門に近い、お城の
お膝元である石垣下の尾張町に行列が通ったのは平成17年までです。
 
尾張町を、昔は「百万石まつり」の行列が通っていたのだ、と懐かしむ方が
たくさんいらっしゃいます。
 
以下の記事等の資料を展示して、尾張町と百万石まつり との関わり合いを
今一度、振り返りましょう。
 
第1回 村上甚太郎さん お松の方
第9回 尾張町の写真
第22回 村上甚太郎さん 利家公
第25回 尾張町の写真
第31回 村上隆さん(甚太郎さんの息子さん) 利家公
第1,22,31回の新聞報道記事
第1,22,31回のポスター及び関連資料
近年のパンフレット、リーフレット、チラシ等
 
第72回にて利家公を演じた「市川右團次」さんの色紙
第72回にてお松の方を演じた「紺野まひる」さんの色紙
第73回にて利家公を演じた「仲村トオル」さんの色紙
第73回にてお松の方を演じたた「夏菜」さんの色紙
 

展示期間 令和7年5月8日 ~ 7月2日
 

 
<以下は百万石まつり、変遷メモ>
 
1958年(7回)百万石パレードは6月14日開催。
1984年(33回)利家は男優の鹿賀丈史。1986年から男優に定着。
(お松 の方は2001年(50回)女優の斉藤慶子。2008年(57回)から
女優が定着。)
1980年(29回)パレードは市役所がスタート地点になった。
2000年(49回) 6月第2週が開催になった。
2006年(55回)鼓門がパレードのスタート地点になった。
2007年(56回)6月第1週が開催になった。

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前田利家公に扮する尾張町村上洋品店社長 村上甚太郎さん
(第22回 昭和48年 資料提供 村上公一 様)
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前田利家公に扮する尾張町村上洋品店社長 村上隆さん
(第31回 昭和57年 資料提供 村上公一 様)
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前田家重臣に扮する、尾張町森井書店店主 森井清城さん
( 資料提供 森井清城 様)
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