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2025年7月5日

企画展 ー 鬼神面と道具たち ー

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企画展 ー 鬼神面と道具たち ー
 
協力 能面アート倶楽部 様
後援 北國新聞社
 
(開催年月日):2025年7月6日 ~ 2025年10月3日
 

 金沢は「空から謡が降ってくる」と言われるほどの能の盛んな土地柄。
かつて、秀吉、家康、とともに能を舞ったのが前田利家。
その前田利家が当地に能の種をまき、5代綱紀が加賀宝生の礎を築きました。
そんな能において欠かせない重要小道具が「能面」です。
今回は「能面アート倶楽部」様のご協力で、能面展示の企画展を行います。
 
能は、平安(794~1185)、鎌倉(1185~1338)時代に”猿楽”と呼ばれ、
曲芸、物まね、寸劇、滑稽芸等の様々な芸が劇形式に変化し、現在の能は
室町(1392~1573)時代に、”観阿弥”、”世阿弥”親子が足利義満に気に入られ
、その強力な援助のもと、より発展し、洗練されたものになって行きました。
 
桃山(1573~1600)時代になると、大名や武将たちが能を習い、舞うことを
楽しむようになります。能は武士たちのたしなみとして受け継がれ、武家の儀式(式楽)
としての位置づけにもなりました。
また、加賀藩においては能が町民にも奨励され、上述の「空から謡が降ってくる」という
形容も生まれてきました。(庭師や大工が作業をしながら”謡”をくちずさむ、ことから)。
こうして加賀藩においては能は一層盛んなものとなりました。
 
加賀藩5代前田綱紀は、5代将軍徳川綱吉に倣い、それまでの金春流から
宝生流への転流を図りました。宝生流は加賀藩の絶大な庇護を受け
「加賀宝生」という言葉が生まれるほどの、宝生流の一大拠点となったわけです。
 
さて、「能面}ですが、能面は、各流派(観世、宝生、金春、金剛、喜多の能楽五流派)
の家元に存在した面、または、各大名家が所持した面、を模写模作して作るのが
慣習であり、偽物という概念は無く、”写し”として公認されているのです。
 
能面は、その作製過程において、能の登場人物の性格を、心をこめて面に
打ち込みます。よって能面を作ることを「面(オモテ)を打つ」と表現します。
 
そんな能面の数々、じっくり、そして、とくとご覧ください。
また、能面制作の道具、材料の木材、等々の展示もしてあります。
きっと、皆さまの興味を惹くこと請け合いです。
是非、ご来館のほどを!
 

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2025年6月21日

藪田さん、秋聲の交遊を俯瞰して秋聲像を明瞭化

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徳田秋聲記念館 学芸員 藪田由梨さんの講演の
日がやって来ました。
 
当講演会において最多出演となる藪田さんは、今回の講演で
8回目を迎えられました。(複数回出演の講師の先生方は
他にもたくさんいらっしゃいますが、藪田さんは他の講師の
方々を圧倒しています。回数のみならず、その存在感においても!)
 
本日のテーマは「 秋聲交遊録 ― 『あらくれ会』の人々 」です。
 
秋聲の、作家仲間からの評価はいかばかりのものだったのか?。
秋聲の、当時の文壇での立ち位置は?。
周囲の人たちの、秋聲へのリスペクト度合いは?。
 
個々の秋聲作品についての味わい、秋聲の、自然主義文学者たる由縁、
等々は今までの藪田さんの講演により かなり詳らかにされてきました。
 
本日は、上記テーマを通して、徳田秋聲という文学者の、文学界における
当時の、そして今も続く「位置決め」を藪田さんはされた如くでした。
 
尾崎紅葉門下の「四天王」の1人と称され、また、自然主義文学の「四大家」の
1人に列せられたことで秋聲の立ち位置は充分伺い知れています。
 
(これは知りませんでしたが)昭和17年という戦時下の日本において秋聲は
「日本文学報告会の小説部会長」に就いて(就けさせられて?)いたということで
小説家を束ねるには、秋聲の力を借りるのがいちばん、と当局は考えていたのかも
しれません。
 
このことからも、秋聲の、この当時の文壇での立ち位置(重鎮)のほどが
分かります。
 
藪田さんの配布資料には、(二日会 → 秋聲会 → あらくれ会)のメンバーの
人達の、そして、秋聲を大新聞社の小説世界へ後押しした夏目漱石の、秋聲作品評、
秋聲という人の人物評が、満載されています。
 
ことに漱石の作品評はちょっと冷淡です。秋聲作品はフィロソフィーの欠如とまで
酷評しています。
 
でもそれは、小説に何を求めるのか、という価値観の違いから来るものだと
筆者は考えます。
 
菊池寛は、秋聲、正宗白鳥を「人間の描ける作家」と評し、別にそのことが
(そうでない)白樺派の作家との間に優劣を生じさせているものではない、
と評しています。このような客観描写に専心する流儀は、漱石の流儀からすれば
「ごもっともです」でとどまっていて、そこから先の慰み、を与えることが
無い、というふうな結論付けになってゆくのです。これも文学観(文学が担う意義)の
違いから来るものなのでしょうね。
 
田村俊子、宇野千代、林芙美子、の女流作家達の秋聲評(人物評)は
面白い。田村俊子の評は、秋聲のひと通りの優しさを述べていますが、
懐深く、魂を愛撫する温かみに欠けているようなことを述べています。
漱石の云う、「慰藉を与える、とか、リリーブを感じさせるとか」が無い、
との評と似通っていると思えました。
 
小説に見られる自然主義的表現手法が、人間性にもどこかリンクしているのか、
と考えさせられました。
宇野千代は、多作の秋聲を「小説の鬼」とリスペクトしています。
林芙美子はその作品中で秋聲に対する親しみを述べています。
 
川端康成にいたっては、秋聲のその生活において世俗から超然としているところ、
また、作品においても「強いられるところがなにもない」といった、
これもやはり超然的態度の現れを大評価しているごとくです。
 
二日会 → 秋聲会 → あらくれ会へと、変遷を辿った、仲間の集まりの会
が発展していったことは、ある意味、秋聲さんの、人間的にも、作風的にも、
人を魅了する只ならぬ力があったことを物語っていると思いました。
 
そして
文壇的には、大正初期、秋聲は、かの文豪夏目漱石と肩を並べる存在であったことが、
本日の藪田さんの力説で、よ~く解りました。
 
秋聲の、このような文壇での地位の凄さを知れば、秋聲作品を読む喜びは
なおひとしおのものがある、と感じ入りました。
 
本日の藪田さんの力説は、秋聲愛に満ち満ちていて、とっても心地よいものでした。
 
藪田さんのご紹介ですが、
来年の秋から放送されるNHKの連続テレビ小説は宇野千代をモデルにした
ものだそうです。調べましたら、主人公は石橋静河さんだそうです。
 
この女優さんは、私見ですが、超個性的で、超知的で、この役にピッタリ
だと思います。
 
藪田さん期待の、秋聲さん登場シーンがあることを祈ります。
 

2025年5月17日

石田 健さん、紀尾井町事件につき唯一無二の講演

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石川県立歴史博物館 元学芸員 石田 健 氏の講演会(令和7年5月17日)の日が
ついにやってまいりました。演題は「紀尾井町事件」です。
”ついに” とは、「健さん」の当テーマによる講演は、実は令和2年度に企画されていました。
 
それが、あの悪夢ともいうべき(当時猛威を振るっていた)コロナ初年度にぶつかり、頓挫してい
たのでした。
この頓挫は、全くの中止ということではなく、”またの日を”との願いをずっと懐に温めさせていたもの
でした。
 
そして本日、5年越しの念願が実って、石田 健 氏の(本日の)講演が実現したわけです。
 
明治新政府のトップリーダー(内務卿)大久保利通暗殺事件である「紀尾井町事件」は、
明治11年5月14日に起こりました。
 
暗殺犯は、石川県士族の島田一郎ほか4名の石川県士族と島根県士族1名の
計6名です。
明治新政府のトップリーダーの暗殺という大事件にかかわらず、この事件は
通常の歴史の教科書には載っていません。
石田氏は
この事件の明治新政府における歴史的位置づけ、意味合い、このころの士族反乱
それぞれの持つ多様性、を解き明かして頂きました。
また、
首謀者の多くが石川県士族であったことの意味合いを石田氏は詳説されました。
 
石田氏は、深堀りされます。
石川県士族による反政府運動は(建白書をもって意見を訴えても聞き入れてもらえなかった
こと等により)言論をもっての訴求の代りに、武力に訴えるべきだ、との思想が強くなったこと
が、この事件の根底にあるのではないか。
また、幕末の王政復古での政局や、鳥羽・伏見の戦いにおける加賀藩のなすところがなかったこと
による、加賀藩に対する評価の低さの汚名を晴らすべき、といった考えがこの事件の根底には
あるのではないか。
 
メンバーの中には他県の士族もおり、この点に関しては、明治政府の、士族に対する卑劣な
扱い、等がもたらす(士族の)不満がこの事件の(大きく分けて)もう一つの要因だ、ということを
石田氏の説明から感じ取りました。
 
島田たち一派の用意周到な計画によるこの事件。
島田たちに対するシンパの数の多さ、島田たちが深い教養を有していたこと、などなど
この事件は単なるテロ事件ではないことを石田氏は説明されたと感じました。
 
明治初期の、国家としての成長を急ぐあまりの未成熟さが、士族にたいする冷酷な
処遇を施したり、というように、あちこち綻びが出て来ていたような政情下、
まさに政府のトップリーダーたる、新政府の象徴たる大久保に刃が向けられた、と
筆者は解釈しました。
 
当事件に深い造詣を持つ石田氏に、大感服し、打たれました。
このテーマに関する、まさに、日本一(いち)の講演を聴けた思いです。

2025年5月7日

「 百万石まつり と 利家公ゆかりの尾張町 」展

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「 百万石まつり と 利家公ゆかりの尾張町 」

( 後援 北國新聞社 
協力 金沢商工会議所 
金澤ふるさと倶楽部代表 伊藤 様 )

令和7年5月8日 ~ 7月2日まで
 
金沢百万石まつりは、加賀藩祖・前田利家公が天正11(1583)年6月14日、
金沢城に入城し、金沢の礎を築いた偉業をしのんで開催されています。
今年で第74回目を迎えました。
 
尾山神社での封国祭に合わせて、大正12年から昭和20年まで金沢市祭
として行われてきた奉祝行事がルーツとされています。
 
終戦後は進駐軍の指導により昭和21年から6年間、尾山まつりとして
尾山神社奉賛会によって開催され、その後 昭和27年からは金沢市と
金沢商工会議所が中心となって「商工まつり」として開催されることに
なりました。
これが「金沢百万石まつり」としての第1回目となります。
 
その後、豪華絢爛な百万石行列をはじめ、400年にわたり受け継がれてきた
金沢ならではの伝統ある行事が賑やかに繰り広げられる現在の姿に発展して
来ました。
 
当祭典の一番のメインイベントは何といっても豪華絢爛な百万石行列です。
(1999年(第48回)までは「百万石パレード」と称し、
2000年(第49回)から現在の呼称の「百万石行列」となりました。)
 
前田利家公ゆかりの、金沢城正門の大手門に近い、お城の
お膝元である石垣下の尾張町に行列が通ったのは平成17年までです。
 
尾張町を、昔は「百万石まつり」の行列が通っていたのだ、と懐かしむ方が
たくさんいらっしゃいます。
 
以下の記事等の資料を展示して、尾張町と百万石まつり との関わり合いを
今一度、振り返りましょう。
 
第1回 村上甚太郎さん お松の方
第9回 尾張町の写真
第22回 村上甚太郎さん 利家公
第25回 尾張町の写真
第31回 村上隆さん(甚太郎さんの息子さん) 利家公
第1,22,31回の新聞報道記事
第1,22,31回のポスター及び関連資料
近年のパンフレット、リーフレット、チラシ等
 
第72回にて利家公を演じた「市川右團次」さんの色紙
第72回にてお松の方を演じた「紺野まひる」さんの色紙
第73回にて利家公を演じた「仲村トオル」さんの色紙
第73回にてお松の方を演じたた「夏菜」さんの色紙
 

展示期間 令和7年5月8日 ~ 7月2日
 

 
<以下は百万石まつり、変遷メモ>
 
1958年(7回)百万石パレードは6月14日開催。
1984年(33回)利家は男優の鹿賀丈史。1986年から男優に定着。
(お松 の方は2001年(50回)女優の斉藤慶子。2008年(57回)から
女優が定着。)
1980年(29回)パレードは市役所がスタート地点になった。
2000年(49回) 6月第2週が開催になった。
2006年(55回)鼓門がパレードのスタート地点になった。
2007年(56回)6月第1週が開催になった。

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前田利家公に扮する尾張町村上洋品店社長 村上甚太郎さん
(第22回 昭和48年 資料提供 村上公一 様)
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前田利家公に扮する尾張町村上洋品店社長 村上隆さん
(第31回 昭和57年 資料提供 村上公一 様)
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前田家重臣に扮する、尾張町森井書店店主 森井清城さん
( 資料提供 森井清城 様)
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2025年2月15日

穴倉さん、能登を題材の鏡花、柳田、雪岱のコラボ作品解説

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「歴史と伝統文化講演会」にての、泉鏡花記念館 学芸員・穴倉 玉日さんの
講演会(令和7年2月15日)は3回目となります。
昨年も同じような時期(令和6年2月17日)でした。
 
昨年は「鏡花生誕150年~存在をつなぐということ~」というテーマでした。
 
鏡花の終の棲家(通称「番町の家」)を再現した「再現!番町の家」を
我々もネット検索で訪問できることを教えて頂きました。
 
鏡花の人物像がぐっと身近に感じられ、「鏡花文学への入り」への、一種の
パスポートを与えて頂いた感がありました。
 
今回のテーマは「泉鏡花『山海評判記』と能登」です。
 
泉鏡花と民俗学者・柳田國男、画家の小村雪岱(挿絵)の大コラボ作品です。
能登・和倉温泉を主舞台にした怪異を描いた長編小説です。
鏡花の盟友・柳田國男を介して知った「オシラ神信仰」が背景となっています。
 
能登・和倉を観光しに来た「主人公・矢野(半ば鏡花がモデル)」の身辺に
怪異な現象が次々と起こります。
 
能登を綿密に取材・調査し能登の情景がしっかり叩き込まれた
鏡花に、柳田から感化された「オシラ神信仰」伝説がモチーフとなって降りかかり、
能登を舞台の怪異小説へと昇華したのでしょうか。
 
この作品は時事新報の新聞小説です。この物語を更に詳解する役を
担ったのは、画家の小村雪岱でした。彼の筆になる挿絵は読者のみならず
鏡花をも感嘆させたのだと思われます。
 
ここに当作品が鏡花、柳田、小村のコラボと言い得る由縁があるのでしょう。
 
「オシラ神」の本拠は東北と言われていますが、実は「白山の姫神」が本当の
本地だと作中で「邦村(柳田がモデル?)という博士」に語らせています。
 
鏡花は、能登の深い深い自然の中に、「オシラ神」を舞い戻らせたかったのでしょうか。
 
穴倉さんの、当作品についての解説は、当時の交通事情、鏡花の交友関係等を
前提として説明されての、立体的なものであり、しみじみと当作品の組み立て具合が
分かります。
 
ここまでお膳立てして頂きましたので、この「山海評判記」に立ち向かおうと思った
講演参加者の方は多くいらっしゃったのではないでしょうか。
 
泉鏡花は郷里が生んだ大文豪です。
その名声は、数々の、珠玉のような作品群が昔から今日まで、
多くの読者の心をわしずかみにしたこと、によって築かれたと思います。
夏目漱石や三島由紀夫、谷崎潤一郎など、数多くの作家が「鏡花は天才である」と
称賛したことをもって、その文壇での地位は輝く存在であり続けています。
 
ところが、鏡花文学にある程度以上浸り、習熟していない人たちにとっては、
鏡花文学はハードルが高い一面もあるでしょう。
 
現代の、通常の作家のものする小説のように、読む人の脳中に
すっと入ってゆき、その内容をたやすくイメージングできるわけではないのが
鏡花文学なのではないでしょうか。
 
鏡花を手に取り挫折された方もきっと多いと思います。
鏡花作品につき、全く申し訳ないのですが、寡読な私(筆者)が
たいそうなことを言える立場ではありませんが、同じ経験の方も
幾ばくかいらっしゃることと思います。
しかし、それでも一つの作品を何度も繰り返し読了し終えた時に覚える
「分かった」感、快感、征服感は鏡花作品の、他を圧するところではないでしょうか。
 
修辞の限りを尽くし、豊富な語彙力でストーリーを展開する鏡花文学は、
読む者の脳中に、美しいものの限りを、怪しいもの、妖しいもの、の限りを鮮やかに
展開せしめ、はたまた、登場人物の心の微妙な機微を描き出していると思います。
 
郷土が生んだ天才・鏡花をずっと研究され、その文学の価値をずっと
我々に紹介され、啓蒙されている穴倉さんの講演を、そしてまた
鏡花記念館でのお話をいつでも承れる我々の幸せな境遇をしみじみ感じざるを得ません。
 
鏡花文学に、すでに明るい方は別として、これから鏡花世界に入らんと
する人たちにとって、穴倉さんの存在は実に大きいと思いました。
 
鏡花文学の面白さ、美しさ、妖しさ、に心をぼ~っと委ねて読書の
愉しみに浸りたい、浸れる日はきっと来る、と思った方も多かったのではないか、
と思えた、穴倉さんの珠玉の講演でした。
 
金沢人で、石川県人で、読書人を自認するのであれば「鏡花」を読まずして人生を
終えることが如何に勿体ないことか。
「鏡花の世界」に分け入って、真の、読書の愉しみを獲得せずして
何の読書人たりうるか、の念でいっぱいになりました(おせっかいな話ですが)。
 
穴倉さん、本日はたいへん有難うございました。
これからもずっと、鏡花世界のナビゲートをよろしくお願いいたします。

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2025年1月31日

浅野川界隈「ひがし」「主計町」茶屋街展

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浅野川界隈の「ひがし」「主計町」茶屋街展
 
( 後援 北國新聞社 )
 
令和7年1月30日~4月30日まで
 
 
金沢には重要伝統的建造物群保存地区(以下 重伝建と略す)が4か所あります。
 
そのうちの2つが今回展示の「東山ひがし」と「主計町」です。
 
( 他に「卯辰山麓」と「寺町台」があります。 )
 
戦火や大きな災害に見舞われることがなかった金沢は、歴史的町並みや用水、道筋
 
など城下町特有の遺構が町のいたるところに残されています。
 
金沢市はこれらの歴史的風土と自然環境を守り、後世へ引き継ぐための数々の条例を
 
設け、金沢市独特の制度による保存策を進めてきました。
 
このような行政の取り組みもあり金沢は全国有数の歴史的町並みを有する都市として
 
高い評価を得てきました。
 
とりわけ卯辰山麓に茶屋町として開かれた「ひがし」は平成13年11月に、国の
 
重伝建に選定され、平成20年6月には、浅野川の畔に位置する「主計町」も
 
重伝建に選定されました。
 
美しい出格子、弁柄塗の特徴を持つ、多くの茶屋建築からなる「ひがし」茶屋街、
 
浅野川沿いには三階を増築した町屋が建ち並び、意匠的に優れた伝統的建造物が
 
多数残る「主計町」茶屋街は、まさに重伝建にふさわしい区域です。
 
当館の展示をご覧になって両茶屋街の雰囲気を充分感じ取って頂き、また、
 
古より今日まで脈々と受け継がれて来ている「金沢芸妓文化」に
 
思いを寄せて頂きながら 、どうぞ「ひがし」、「主計町」の両茶屋街をご散策あれ。
 
 
協力 
 
      金沢市
      東料亭組合          東芸妓組合
      主計町料亭組合       主計町芸妓組合
      金沢 浅の川園遊会館
 
備考
 
     ひがし茶屋街  : 文政3年(1820年)に加賀藩公認の茶屋町として誕生。
 
 
     主計町茶屋街 : 明治初期に成立

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2025年1月19日

齋藤先生、金沢の美術工芸品蒐集家の功績を語る

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中村記念美術館 学芸員 齋藤直子先生の前回講演会(令和6年1月20日)
から早や1年が経ちました。齋藤先生の講演はこれで3回目となります。
前回(令和6年1月20日)のテーマは「茶を通した小堀遠州と金沢のつながり」でした。
まだ記憶に新しいところです。
 
今回(令和7年1月18日)は「金沢の近代数寄者の茶道具蒐集」と題しての
講演です。
前回同様1月の寒中での開催故、寒さで身体がこわばりがちですが、他方で、
心中が凛として、先生の講演を拝聴するには良い状態なのかもしれません。
ましてや本日は気持ちの良い晴天に恵まれ、凛とした天高さの日和でした。
 
ということで、令和6年度第9回の齋藤先生の講演です。
 
テーマにもありますように、茶道具蒐集に熱心であった金沢の数寄者3名を中心としての
名品蒐集の様子、エピソード、及び、ここから後の美術館設立への契機、
系譜を語って頂きました。
 
先生が特に取り上げられた3名は、金沢の実業家で、名品の茶道具蒐集の数寄者でありました。
 
この3名とは、中村栄俊、林屋亀次郎、山川庄太郎です。
 
いずれの方も、名にし負う金沢の実業家です。
事業以外に、旺盛な風流心から数寄者として茶道具をはじめとしての美術工芸品の
名品の数々を蒐集されました。
 
これらが、金沢市立中村記念美術館、石川県立美術館へと繋がりなした。
 
中村栄俊氏自らが、その蒐集した美術工芸品を展示公開すべく「中村記念館」を開館し
「金沢市立中村記念美術館」へと繋がり、山川庄太郎氏のコレクションは「山川美術財団」を経て
「石川県立美術館」へと、その蒐集品は受け継がれました。
 
かような先人たちの尽力により、美術王国 金沢の名が更に高まったわけです。
 
先生は中村栄俊氏の足跡を重点的にに語られました。
中村栄俊氏の名品入手の経緯のみならず、それらの作品の出自をも説明され、名品入手時の
エピソードをも語られました。そういう背景を教えて頂けると作品に対する興味度が
グンとあがりますね。
 
勿論、数々の名品の、スライドによる芸術的観点からの説明もあり楽しい講演会
となりました。
 
また、林屋氏の実業家としての偉業以外の、数寄者たる風流人としての側面、
山川氏の、石川県立美術館への所蔵品の寄付にいたった経緯を詳説されました。
 
これら三氏以外に、西川外吉氏の数寄者たる蒐集功績をも紹介されました。
 
また、蒐集活動を巡っての数寄者たちの、人的交流にまつわるエピソードを
語って頂き、茶道具をはじめとする美術工芸品がより一層身近になった
ことでした。
 
中村栄俊氏の蒐集にかかる名品の宝庫である金沢市立中村記念美術館への
想いが一層増した参加者の方々も多かったのではないか、と思いました。
 
齋藤先生、本日は美術工芸品の有する魅惑的価値で我々の心をうんと満たして
頂きまして有難うございました。
 
また、本日の晴天のような清々しさで満ちた齋藤先生の講演でもありました。
次回の齋藤先生の講演が、今からもう待ち遠しくなりました。

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2024年12月21日

藪田さん、リアリスト秋聲の、多面的地震描写を詳説

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徳田秋聲記念館 学芸員 藪田由梨さんの講演は
今回でついに第7回目となりました。
 
この間、自然主義文学の最高峰であれど、現代においてはその秀逸さがイマイチ伝わりきれていない、と
(筆者だけがそう思っているだけかも)思われている徳田秋聲文学の真髄を明らかにし、
本当の値打ちを明らかにし、その作品を読む愉しみを我々に伝授して頂きました。
 
徳田秋聲文学における人間描写は、だれかれと理不尽な差別をすることなく、
淡々と、ありのままに、あるがままに、人間生活の自然な流れ、そして、その行き着くところ、を著す
ところに最たる特徴がある、と教えて頂いた気がします。
 
秋聲文学の、自然主義たる文学性は「こういうところにあるのだ」という、藪田さんの
解明の数々。いずれも聴講していて、聴いている者の「蒙」が啓け、「霞」が晴れる
気がしたものです。
 
また、秋聲の交友関係を様々なエピソードを交えて浮き彫りにして頂き、
秋聲の人間像を我々に至近距離化して頂いた感がありました。
 
さて
今回(令和6年12月21日)のテーマは「 『余震の一夜』 ― 関東大震災と秋聲 」です。
 
時は大正12年9月1日、
関東大震災発災時、秋聲は所用のため金沢に帰郷していました。
妻子7人は東京・本郷の自宅にいました。
よって秋聲自身が直接この大地震を肌身をもって体験したわけではありませんでした。
金沢も震度3位の揺れがあったようでしたが、今日と違って情報伝達が闊達でない
大正12年ですから、翌日、翌々日の新聞報道がほぼ唯一の情報源でした。
次第に大地震における東京の様子が分かってきます。
 
藪田さんがスライドで示された、当時の東京の大地震被災地図では
幸い、秋聲の本郷宅が、僅かに、激甚なる被災地域から外れていたことを
を示しています。
 
全くの、被災当事者ではなかったので、この関東大震災を題材にしての
冷静なる小説、随筆を著せたのでしょうね。
 
震災時の、漠たる不安、自分の身内の安否につての不確かさの状況下での不安、
また、いろいろ仕入れた情報もとにしての、自身を大地震経験者と見立ててのリアルな
状況、心象風景 等々、を秋聲は私たちの眼前に、複数の小説、随筆等の作品で
展開してくれています
 
小説は小説ですが、自然主義者リアリストの秋聲の著述ですから
まるでルポルタージュの如き描写があります。
東京などの大都市の、一極集中を建設的に批判する評論家の眼を
感じます。
被災地域の復旧・復興についての合理的方策の提言もしています。
 
ですが、そこは小説ですから、いろんな人達の、その立場立場からの
深い心理描写がなされており、災害に遭遇した人たちの、まとまった
物語としての完成をみている、と思いました。
 
藪田さんの講演は、いつもながらシャープで、シンプルで、それでいて
決して平板に終始するわけでなく、そこかしこに起伏が散りばめてあり
聴いていて時間の過ぎることの早いことはやいこと。
また、引用作品の紹介は、その軽やかで、リズミカルな美声での
「読み上げ」でおこなわれますので、まるで「朗読会」のような趣きなのです。
 
秋聲さんの「値打ち」に触れられ、藪田さんの「スター」性にも触れられる
得難い講演会でした(そしてこれからも)。
 
かくして、第7回目の「藪田劇場」は終演となりました。
 
藪田さん、いつもながら本当に有難うございました。
 
当講演会の続く限り、これからもその煌めく「叡智」をご披露下さい。
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2024年11月20日

本康先生、観光鳥瞰図を駆使して粟ヶ崎遊園等観光事情を熱弁

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金沢星稜大学特任教授 本康宏史 先生の講演の日がやって来ました。
(令和6年11月16日)
先生の講演は、日本の近現代史、地域史、産業史のスペシャリストとしてのもの
ゆえ、この分野においては他の追随を許さないこと勿論ですが、
せんだって先生は栄えある「北國文化賞」を受賞され、本日の講演はより一層の
光彩を放つものであったと感じ取りました。
 
本日の講演は、石川、金沢においての、私鉄の発展と観光、というものの融合化、
そして工業振興策以外の、観光の産業化、というものの萌芽にも言及されたものだと思えました。
 
テーマは「粟ヶ崎遊園と観光鳥瞰図 ― 昭和初期の郊外遊園地」という具体的なものです。
 
(本康先生には、過去に「観光金沢と旧城下町の茶屋街」、「軍都金沢と陸軍御用の門前町」という
テーマでの講演を頂いております。全くもって「金沢」の深堀りでした。今回もそれらに増して
興味深いテーマです。)
 
本日、先生は大正末期から戦前にかけての、金沢の行楽地である「粟ヶ崎遊園」を大いに
語られ、これのライバルである「金石涛々園」にも触れられ、金沢の経済振興のために企図された
「産業と観光の大博覧会」(昭和7年)を大々的に説明されました。
この、金沢での「大博覧会」が契機となって観光というものの産業としての重要性及び価値が
当地域の人々に認識され出したのだと思います。
 
そして、今回の特色は、これらの説明において、先生は「観光鳥瞰図」を使われた点にあります。
(鳥瞰図とは、天空より見たと想像されるパノラマ風景画のこと。)
このころ(大正~昭和初期)観光鳥瞰図なるものが作られだし、鉄道路線図、風景画、
名所図の要素を有し、これが温泉地の宣伝、行楽地の宣伝・案内等、観光業の発展に寄与し
また、金沢開催の上記の「大博覧会」の盛況に向けて大いに貢献したということです。
鳥瞰図は、また、これをを眺めているだけでも楽しみをもたらし、人々の行楽欲、旅行熱を
高める効果もあったようです。
 
先生はこのようにして多種多数の鳥瞰図、当時の写真を用いて説明されましたので、
これにより「粟ヶ崎遊園」、「金石涛々園」の楽しさが我々に存分に伝わりました。
また、多大な経済効果をもたらした金沢での「産業と観光の大博覧会」の壮大さを、
余すところなく伝えて頂きました。
 
とにかく、鳥瞰図の楽しさ、明解さも相まってたいへん楽しい講演でした。
 
郊外電車と遊園地事業の連携、というビジネスモデルが金沢に存したということ、
観光推進やイベントの成否に、ヴィジュアルツールの果たす役割が大きかったということ、
(この時代の例では「鳥瞰図」ということになります。)がよくわかりました。
また、行楽地、名勝、伝統芸能、温泉地 等の観光資源を駆使して
観光というものを強固な産業に押し上げる契機が、大正から戦前にかけて石川、金沢に
存在し、今日の観光立県・石川、金沢に繋がっているのだろうと思います。
 
「観光鳥瞰図」作成の流儀は、強調したいものを分かりやすく、明瞭に訴える方式での
今日のヴィジュアルなイラストに生き続けています。
 
「北陸の宝塚」とうたわれた「粟ヶ崎遊園」、「産業と観光の大博覧会」など、
少なからず「ロマン」を希求する空気が横溢していた「大正」期から、昭和初期までの、
あの暗い戦争に突入して行く前夜のまでの時代の、金沢モダニズムの発露であると思われた
経済事象、文化事象に光を当てて本康背先生は熱く語って頂きました。
 
「観光鳥観図」、「写真」を多用されての説明は、歴史博物館草創期からスタッフとして、
展示に様々な工夫、仕掛けをこらして近代史に光を当ててこられた本康先生ならではの、
有難い講演会でした。
 
本康先生の次回が、早や待ち遠しくなりました。
先生、本日はたいへん有難うございました。
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2024年10月23日

増山先生、時の人 渋沢と郷土の英雄 高峰を熱弁

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尾張町老舗交流館の展示の一つとして昭和33年の尾張町大通りの
写真があります。アーチ形の写真で、尾張町の、とあるビルの屋上から
360度の角度でとられた写真です。尾張町の歴史の証人的価値を有する
重要な写真です。この写真の中央に、森八本店と向かって左側に森八喫茶店の
建物が写りこんでいます。この喫茶店の新築披露式に、かの渋沢栄一さんが
大正7年に訪れ、森八のご当主はそのために門(渋沢門と称する)を建てた、という
新聞記事を数年前に目にしていました。よって当館を訪れる方々には
このアーチ形の写真を見ながら、この話を得々と紹介させて頂いております。
そしてその門は、今は「泉鏡花記念館」の門として移築されいます、と申し添えて。
 
何せ、つい先だって「渋沢翁」の肖像が1万円札になったものですから
尚更タイムリーなエピソードとしてお客様に説明させて頂いています。
 
また、当館の南南西の方向の背後(黒門前緑地)には、移築された「旧高峰家」があり、
タカジアスターゼとアドレナリンの発見で世界的に有名な、
金沢人なら誰でも知っている「高峰譲吉」さんを、いつも更に
身近に感じさせて頂いております。
 
本日(令和6年10月19日)の講演は、この上記お二人をテーマにした
もので、「金沢ふるさと偉人館」前副館長の増山 仁 先生が講じられました。
 
テーマは「高峰譲吉と渋沢栄一」というものです。
この偉人二人(両巨頭)の交わりが、果たしてどのようなものであったか、
開演前から興味津々でありました。
 
増山先生は、先ず、渋沢、高峰両人の生まれた時代相の説明から入られました。
時代は幕末です。
「異国船打払令」が出たりと、「海防」の必要性が切実に感じられた時代です。
 
日本は、鎖国から開国へと、大きくかじ取りを変えた時期でした。
 
加賀藩にあっては、明倫堂(文学校)、経武堂(武学校)が建てられ、
西洋軍事技術施設が設けられ、舎密(せいみ=化学)が教授され
多くの化学者を輩出したそうです。
 
高峰譲吉の父も、京都や江戸で蘭学を修めたことから加賀藩に招かれ、
舎密(せいみ=化学)の仕事に就きました。
このため譲吉は1歳で高岡から金沢に移り、明倫堂に学び、長崎留学、大阪医学校、
七尾語学校、を経て工部大学校(東京大学工学部の前身)に学び、26歳時に
イギリス留学を果たし、29歳で農商務省に入ります。
そして30歳の時に役人としてニューオリンズ万博に赴き、後の「人造肥料会社」の構想に
繋がる「燐鉱石」に出会います。
また、この年、後に高峰の伴侶となる米国人女性「キャロライン」に出遭います。
その後の、キャリアの積み重ね具合を、増山先生は、ドラマチックに語られました。
 
渋沢は、埼玉の富農の家に生まれ、長じて一橋慶喜に仕え
徳川昭武に随行してパリ万博へ行き、そこで先進的な産業、諸制度
を見聞し、明治政府の大蔵省(当時 民部省)に出仕するわけですが、
後、大蔵省を辞め、実業界へと移ります。
そこで、後述のように多種多様な会社を創り、経済制度の面、
教育・福祉の面、科学振興の面等において日本をけん引し、
日本を富ますに大いに貢献するわけです。
 

以下に、増山先生の説明された、高峰の偉業の数々、渋沢との交わり、そしてさらには
両者の、協同しての偉業を記します。
 
高峰の功績として、皆さん先刻ご承知のことでしょうが、
 
1.「タカジアスターゼ」の発明
2.「アドレナリン」の結晶抽出
が挙げられます。
 
タカジアスターゼの成分は今でも胃腸薬として使われており、
アドレナリンは心臓の動きを強めて血圧を上げ、気管を拡張させ、
今では、外科手術では強心剤、止血剤として欠かすことのできない
重要な薬剤として重宝されています。
 

これらは高峰の、化学者、研究者としての功績です。
高峰が「バイオテクノロジーの父」と呼ばれる所以です。
 
3.他方、彼は起業家精神に富む研究者でもありました。
 
高峰は、このタカジアスターゼを日本の三共商店に快く提供し、
三共商店は大いに発展し、「三共株式会社」を経て
今日の「第一三共」として存続しています。
 
高峰譲吉は、この「三共株式会社」の初代社長を務めました。
 
このように発明、発見したものを世に普及させようと特許を取り
志を同じくする人たちと事業化に努めました。
よって「開発型ベンチャー企業」の先駆け的存在でもあるのです。
 
4.もう一つの顔として日米親善につくし、「無冠の大使」ともよばれました。
 
( 米ワシントンD.C.のポトマック川沿いに桜並木を植え、日米の懸け橋となるべく
高峰譲吉が奔走した話は有名ですね )
 
この高峰と「日本資本主義の父」と称される渋沢栄一が協同したのが
東京人造肥料会社です。
高峰は、30歳の時にニューオリンズ万博に農商務省の役人として
参加し、先述したように人造肥料の原料になりうる「燐鉱石」と出会ったのが
彼の人生において、大きな影響を及ぼしたのでしょうね。
 
( ここで筆者は、ハタと思いました。「万国博覧会」というものの
影響力を。
渋沢が、その後の人生の航路を決めた一つの要素に、「パリ万博」が
ありました。そしてまた、同様の気付きが私に起こりました。
高峰にとっての「ニューオリンズ万博」も彼の人生に大いなる
影響を与えたのだと。)
 

この、先述した
「燐鉱石」は人造肥料の原料となるもので、欧米の進んだ化学肥料に触れたことで、
日本でも肥料を工業化すべきだという思いを持つようになり、
帰国した高峰は、さっそく化学肥料の工業化に乗り出すべく、
実業家である渋沢栄一に協力を依頼しました。
化学肥料の効能を熱心に語る高峰に渋沢は賛同し、
渋沢は日本初の化学肥料会社である東京人造肥料会社(現・日産化学株式会社)
を設立しました。
 
高峰は、同社の事業の成功を見る前に、アメリカでなすべき野望を
抱いていましたので、渋沢の引き留めに関わらず渡米し、
この渡米において、前述の、タカジアスターゼやアドレナリンの発見をなし
、世界的化学者となったわけです。がしかし、この渡米時、渋沢との間に軋轢を
生じた感もあったようですが、後日、高峰が凱旋帰国してからは、
宴をともにし旧の仲に復し、1913年、三共合資会社を三共株式会社へ
組織変更するにあたり協同し、また1917年に、高峰、渋沢、益田の
発起で「日米協会」設立をなし、また同年、渋沢が設立者総代として
(世界に誇る多くの科学者を輩出した)「理化学研究所」を設立しました。
これは
1913年、高峰が提唱した「国民科学研究所」構想がその基礎にあります。
 
1922年の高峰死去に伴う、東京での追悼式は、渋沢が主催しました。
 
以上は

「バイオテクノロジーの父」の高峰と「日本資本主義の父」の渋沢とが
手を取り合い、協同して成し遂げた偉業の数々です。
 
高峰譲吉由来の「高峰賞」は、いまでも金沢市内の、理科、数学に秀でた
中学生に授与され続けており、高峰博士の功績はずっと金沢市民の間に
リスペクトされ続けています。
 
一方、渋沢栄一は明治維新後、500を超える多種多様な会社を創り、
また多数の経済団体を設立し、福祉事業、医療事業、研究事業、教育事業を支援し、
国際交流等に多大な尽力を果たされたことはつとに有名であり、
この度の1万円札にその肖像が採用されたのは、渋沢の偉大さを大いに顕彰するものだと
思います。
 
二人とも、日本の近代化を、科学面、経済面、文化面、国力強化面等から
逞しく推進されたわけであり、日本の世界における地位を大いに高からしめた
巨人とも言うべき存在でありました。
 
増山先生のお話は、二人の、このような大をなすに至った歩みを、また二人の
協同の経緯、過程を、ダイナミックに語って頂いたわけです。
 
意外な事実として、1873年に、前年 美川に移転していた県庁を
金沢に復帰させるよう上申したのは、渋沢であった、との先生の
ご紹介は、渋沢門の存在同様、驚きでありました。
 
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