2022年12月18日
鈴木大拙館の猪谷先生、大拙なる人を大いに語る
前回に続き、思索シリーズの講演会です。
前回の「西田幾多郎」の盟友である「鈴木大拙」の世界への分け入りです。
本日(12月17日)の講師は、鈴木大拙館にて学芸員としてご活躍の
猪谷 聡さん(以下 猪谷先生と称させて頂きます)です。
演題は「『思索』のすゝめ ~鈴木大拙をめぐる~」です。
世界的規模の疫病(コロナ)の暗雲がいまだ晴れず、ロシアのウクライナ侵攻による
惨状、これによる様々な世界的規模の政治的経済的側面での、各国に
おける痛手・安全保障面での不安、経済合理主義の進んだ果ての地球環境破壊、
等々の問題が山積する現代において、前回の西田幾多郎の思索の世界、
今回の鈴木大拙の思索の世界は、我々に何らかの安寧を与えてくれるのか、
暗がる前途を照らす、ともし火・光明となってくれるのか、との期待が私(筆者)には
ありました。
以上のことより
鈴木大拙の思想の、そして彼の思想を学ぶことの、今日的意味合いの
非常に大きいことを、ひしひしと感じていました。
はたして本日の猪谷先生は我々に何とご教示くださるのか。
鈴木大拙の世界へ、どのあたりまでいざなって下さるのか。
講演が始まる前から、興味津々の思いでした。
猪谷先生の大拙論は、大拙なる人物のアウトラインを我々に提示すべく
彼の生い立ちから入りました。
西田幾多郎と同じく明治3年(1870年)に生まれ、父が早く亡くなったことによる
経済的困難により第四高等中学校を中退し、その後進学した東京専門学校、東大選科
いづれをも中退し、どこも卒業せずして、世界的に偉大な仏教哲学者となったわけですが、
鎌倉円覚寺の今北洪川、釈宗演に師事したことが、彼を開けさせたのでしょうね。
上記の二人をはじめ、様々な人たちとの交流を通して大拙は影響を受け、また影響を
あたえたわけです。
特に奥方となった、アメリカ生まれのベアトリス・レインからの影響は多大なものが
あったのでしょうね。
また、先生は、金沢という風土、及び金沢の教育レベルの高さの、大拙に与えた
影響度合いをも指摘されています。
仏教哲学者として
西洋思想の足らざるところを痛感し、仏教思想を中核とした東洋思想を西洋に向けて
伝えたかったのだと思いました。(禅についての様々な著作を英語で著し、
禅文化ならびに仏教文化を海外に広く知らしめた。)
本日のテーマは大拙の云う「思索のすゝめ」です。
一般的に考えると、思索するわけですから、頭の中で今までに獲得した知識を
フルに動員して、うんうん唸って考えるさまを思い浮かべます。
しかし、大拙の思索の世界は、私が思うに反して、そういうものではないことが分かりました。
大拙の秘書を務められた岡村美穂子さんの披瀝された、大拙にまつわるエピソードが
大変興味深いのです。それを先生は紹介されました。
その中で印象的だったエピソードが「それは それとして」です。
鈴木大拙のもとには、多くの方がさまざまな相談に来られていました。
ある時もめ事を抱えたご夫妻が来られ、その相談事を大拙は丁寧に聞いた後、
「それは それとして」と切り出して、自分の意見を述べ、アドバイスをしたそうです。
「それは それとして」という言葉を発しての大拙の応対には えも言われぬ深さを
感じます。
人々は悩みを抱えているときに、その負のスパイラルに陥ってしまい、何が重要なのか
分からなくなることがあります。問題を過大視したり、独りよがりになってしまったり。
視点を変えて、視野を大きく持って、何が一番大切なことなのか、を考えなさい
ということを大拙は言いたかったのではないでしょうか。
また、先生は大拙らしい考え方、感じ方の例として次の話を引き合いに出されました。
交友のあった「出光 佐三」が社業のことで大拙のもとに相談に行くと
「そうか、そういう問題があるのか」と大拙は述べたそうです。
それを聞いて出光さんは、肩の荷が下りたようで心が軽くなったそうです。
これも、私ごときではうまく説明できませんが、とても深い、示唆に富んだ応対だったと思います。
「そうか、そういう問題があるのか」の言葉には、含意することが多く、
いろんな意味に取れるかもしれませんが、出光さんには最大の安堵を与えたようです。
生きていくうえでもっと重要なもの、大切なものは何か、と大拙は問うたのかもしれません。
あなたの思う問題点は、それはそれで大変なことなのだろう、さぞかし お辛いことだろう、
と一旦は相談者の立場を理解し、共感し、でも視点を変えてみたらどうですか、と言いたかった
のかもしれない。
大拙の伝えたい東洋思想の最たるものとして「無心」ということがあります。
西洋的な思索と大いに違って、「知」にとらわれない、「知」の束縛から
逃れて自由となり、本当の大事は何か、を見つめることができること。
そのあとに訪れる心の静寂。そのような境地に達した心のありようを「無心」というのか、
と私なりに思いつつ先生の講義を拝聴致しました。
先生の講義の1時間半は、1時間半であって、否、単にそうではない、大拙の世界の入り口に
立たせて頂いた、時計では計れない「過ぎ去らざる時、のもたらした刻印、われわれの心中に
ずっと留まり続ける啓蒙の刻印」だと思いました。
猪谷先生、本日の講演、心から感謝申し上げます。
続演を是非期待させて頂きます。