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2025年6月21日

藪田さん、秋聲の交遊を俯瞰して秋聲像を明瞭化

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徳田秋聲記念館 学芸員 藪田由梨さんの講演の
日がやって来ました。
 
当講演会において最多出演となる藪田さんは、今回の講演で
8回目を迎えられました。(複数回出演の講師の先生方は
他にもたくさんいらっしゃいますが、藪田さんは他の講師の
方々を圧倒しています。回数のみならず、その存在感においても!)
 
本日のテーマは「 秋聲交遊録 ― 『あらくれ会』の人々 」です。
 
秋聲の、作家仲間からの評価はいかばかりのものだったのか?。
秋聲の、当時の文壇での立ち位置は?。
周囲の人たちの、秋聲へのリスペクト度合いは?。
 
個々の秋聲作品についての味わい、秋聲の、自然主義文学者たる由縁、
等々は今までの藪田さんの講演により かなり詳らかにされてきました。
 
本日は、上記テーマを通して、徳田秋聲という文学者の、文学界における
当時の、そして今も続く「位置決め」を藪田さんはされた如くでした。
 
尾崎紅葉門下の「四天王」の1人と称され、また、自然主義文学の「四大家」の
1人に列せられたことで秋聲の立ち位置は充分伺い知れています。
 
(これは知りませんでしたが)昭和17年という戦時下の日本において秋聲は
「日本文学報告会の小説部会長」に就いて(就けさせられて?)いたということで
小説家を束ねるには、秋聲の力を借りるのがいちばん、と当局は考えていたのかも
しれません。
 
このことからも、秋聲の、この当時の文壇での立ち位置(重鎮)のほどが
分かります。
 
藪田さんの配布資料には、(二日会 → 秋聲会 → あらくれ会)のメンバーの
人達の、そして、秋聲を大新聞社の小説世界へ後押しした夏目漱石の、秋聲作品評、
秋聲という人の人物評が、満載されています。
 
ことに漱石の作品評はちょっと冷淡です。秋聲作品はフィロソフィーの欠如とまで
酷評しています。
 
でもそれは、小説に何を求めるのか、という価値観の違いから来るものだと
筆者は考えます。
 
菊池寛は、秋聲、正宗白鳥を「人間の描ける作家」と評し、別にそのことが
(そうでない)白樺派の作家との間に優劣を生じさせているものではない、
と評しています。このような客観描写に専心する流儀は、漱石の流儀からすれば
「ごもっともです」でとどまっていて、そこから先の慰み、を与えることが
無い、というふうな結論付けになってゆくのです。これも文学観(文学が担う意義)の
違いから来るものなのでしょうね。
 
田村俊子、宇野千代、林芙美子、の女流作家達の秋聲評(人物評)は
面白い。田村俊子の評は、秋聲のひと通りの優しさを述べていますが、
懐深く、魂を愛撫する温かみに欠けているようなことを述べています。
漱石の云う、「慰藉を与える、とか、リリーブを感じさせるとか」が無い、
との評と似通っていると思えました。
 
小説に見られる自然主義的表現手法が、人間性にもどこかリンクしているのか、
と考えさせられました。
宇野千代は、多作の秋聲を「小説の鬼」とリスペクトしています。
林芙美子はその作品中で秋聲に対する親しみを述べています。
 
川端康成にいたっては、秋聲のその生活において世俗から超然としているところ、
また、作品においても「強いられるところがなにもない」といった、
これもやはり超然的態度の現れを大評価しているごとくです。
 
二日会 → 秋聲会 → あらくれ会へと、変遷を辿った、仲間の集まりの会
が発展していったことは、ある意味、秋聲さんの、人間的にも、作風的にも、
人を魅了する只ならぬ力があったことを物語っていると思いました。
 
そして
文壇的には、大正初期、秋聲は、かの文豪夏目漱石と肩を並べる存在であったことが、
本日の藪田さんの力説で、よ~く解りました。
 
秋聲の、このような文壇での地位の凄さを知れば、秋聲作品を読む喜びは
なおひとしおのものがある、と感じ入りました。
 
本日の藪田さんの力説は、秋聲愛に満ち満ちていて、とっても心地よいものでした。
 
藪田さんのご紹介ですが、
来年の秋から放送されるNHKの連続テレビ小説は宇野千代をモデルにした
ものだそうです。調べましたら、主人公は石橋静河さんだそうです。
 
この女優さんは、私見ですが、超個性的で、超知的で、この役にピッタリ
だと思います。
 
藪田さん期待の、秋聲さん登場シーンがあることを祈ります。
 

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