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2026年7月25日

本康先生、なぜ県名が石川?県庁の場所は?

20260725

本日(令和8年7月25日)は石川県の近代地域史研究の
スペシャリストである金沢星稜大学特任教授 本康宏史 先生の
当講演における第5回目の講演の日です。
 
今回のテーマは「石川県の誕生 ― 金沢に県庁がなかった時代」。
 
幕末までの、前田家統治の加賀藩についての知識は皆さま結構お持ち
だと思いますが、明治新政府になってからのこの地の統治状況については
皆さま意外と疎いのではないかと思われます。
そういう意味からも今回のテーマは皆さまの興味を
掻き立てるのではないか、との思いで講演を拝聴しました。
 
この地は、主要部分が「加賀の国」であり、前田家が「金沢藩」として加越能を
統治しており、しかるになぜ「石川県」という名称なのか。
そして県庁所在地として金沢以外の地もあったのか。
本康先生はこの明治初頭の政情激変動の時代の状況を克明に語られました。
 
初めに石川県云々の個別的問題から少し離れて日本全体の県名
の付けられ方の特殊ケースを上げられました。
 
群馬、埼玉、愛知、三重、島根、香川、そして我が石川。
これらの県に共通するものは?の問いを出され、それは
これらの県は、群名が県名になったのだと。それらの各郡に
県庁舎があったからだと。
 
つまり石川県の場合も、県庁舎が石川郡にあり、そのゆえ県名が
石川県となったのだと、先生は説明されました。
 
では、なぜ石川郡に県庁舎があったのか?
 
明治4年の廃藩置県後、加越能地域は金沢県となりました。
そのとき県庁舎は金沢の長町にありました。
その後明治4年11月に 能登4郡・射水郡が七尾県として分離独立、
これにより金沢県が小さくなり金沢の場所が県の北端ということとなり
これは不都合、もっと中央に、ということで、明治5年2月に県庁が
美川に移されたのです。この地理的問題以外に、金沢では旧士族の
影響が大きそう、それを排したい、との政治的理由から、県庁を
金沢から美川へ、ということになったとも考えられる、との先生の説明でした。
 
このように県庁所在地が石川郡に存する美川ということなので「石川県」となった
わけです。その後、明治5年9月に七尾県は廃止され、明治6年1月に
県庁舎は再び金沢(広坂)に移されました。徴兵令が施行されたので
軍事の中心の金沢に行政の中心地をやはり合一すべし、との考えが作用したのでは、
と先生は説明されました。
 
石川県県域の変化は当然隣県の富山、福井にも影響しました。
明治9年から明治14年までの間、石川県は現在の県域に加えて富山県および
福井県の嶺北地方に当たる地域をも含んでいて、俗に「大石川県」と呼ばれていたそうです。
この時は人口183万人で、全国の県の中ではトップだったそうです。
このようなことに連動して、富山県、福井県も県域の変遷を辿ったわけです。
ことほどさように、明治初期は当地域における県域は大変動しました。
 
以上が、本康先生の本日の講演の骨子でした。
また先生は、
通説的に「美川の県庁舎」といわれている写真についての疑義を提起され
真実を披瀝して頂きました。
このように、先生の学者としての、真骨頂なる一面を示して頂いた場面も
今回の講演では多々ありました。
 
参加者一同、皆異口同音に「勉強になった」の感嘆があちこちで囁かれました。

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