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2024年10月23日

増山先生、時の人 渋沢と郷土の英雄 高峰を熱弁

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尾張町老舗交流館の展示の一つとして昭和33年の尾張町大通りの
写真があります。アーチ形の写真で、尾張町の、とあるビルの屋上から
360度の角度でとられた写真です。尾張町の歴史の証人的価値を有する
重要な写真です。この写真の中央に、森八本店と向かって左側に森八喫茶店の
建物が写りこんでいます。この喫茶店の新築披露式に、かの渋沢栄一さんが
大正7年に訪れ、森八のご当主はそのために門(渋沢門と称する)を建てた、という
新聞記事を数年前に目にしていました。よって当館を訪れる方々には
このアーチ形の写真を見ながら、この話を得々と紹介させて頂いております。
そしてその門は、今は「泉鏡花記念館」の門として移築されいます、と申し添えて。
 
何せ、つい先だって「渋沢翁」の肖像が1万円札になったものですから
尚更タイムリーなエピソードとしてお客様に説明させて頂いています。
 
また、当館の南南西の方向の背後(黒門前緑地)には、移築された「旧高峰家」があり、
タカジアスターゼとアドレナリンの発見で世界的に有名な、
金沢人なら誰でも知っている「高峰譲吉」さんを、いつも更に
身近に感じさせて頂いております。
 
本日(令和6年10月19日)の講演は、この上記お二人をテーマにした
もので、「金沢ふるさと偉人館」前副館長の増山 仁 先生が講じられました。
 
テーマは「高峰譲吉と渋沢栄一」というものです。
この偉人二人(両巨頭)の交わりが、果たしてどのようなものであったか、
開演前から興味津々でありました。
 
増山先生は、先ず、渋沢、高峰両人の生まれた時代相の説明から入られました。
時代は幕末です。
「異国船打払令」が出たりと、「海防」の必要性が切実に感じられた時代です。
 
日本は、鎖国から開国へと、大きくかじ取りを変えた時期でした。
 
加賀藩にあっては、明倫堂(文学校)、経武堂(武学校)が建てられ、
西洋軍事技術施設が設けられ、舎密(せいみ=化学)が教授され
多くの化学者を輩出したそうです。
 
高峰譲吉の父も、京都や江戸で蘭学を修めたことから加賀藩に招かれ、
舎密(せいみ=化学)の仕事に就きました。
このため譲吉は1歳で高岡から金沢に移り、明倫堂に学び、長崎留学、大阪医学校、
七尾語学校、を経て工部大学校(東京大学工学部の前身)に学び、26歳時に
イギリス留学を果たし、29歳で農商務省に入ります。
そして30歳の時に役人としてニューオリンズ万博に赴き、後の「人造肥料会社」の構想に
繋がる「燐鉱石」に出会います。
また、この年、後に高峰の伴侶となる米国人女性「キャロライン」に出遭います。
その後の、キャリアの積み重ね具合を、増山先生は、ドラマチックに語られました。
 
渋沢は、埼玉の富農の家に生まれ、長じて一橋慶喜に仕え
徳川昭武に随行してパリ万博へ行き、そこで先進的な産業、諸制度
を見聞し、明治政府の大蔵省(当時 民部省)に出仕するわけですが、
後、大蔵省を辞め、実業界へと移ります。
そこで、後述のように多種多様な会社を創り、経済制度の面、
教育・福祉の面、科学振興の面等において日本をけん引し、
日本を富ますに大いに貢献するわけです。
 

以下に、増山先生の説明された、高峰の偉業の数々、渋沢との交わり、そしてさらには
両者の、協同しての偉業を記します。
 
高峰の功績として、皆さん先刻ご承知のことでしょうが、
 
1.「タカジアスターゼ」の発明
2.「アドレナリン」の結晶抽出
が挙げられます。
 
タカジアスターゼの成分は今でも胃腸薬として使われており、
アドレナリンは心臓の動きを強めて血圧を上げ、気管を拡張させ、
今では、外科手術では強心剤、止血剤として欠かすことのできない
重要な薬剤として重宝されています。
 

これらは高峰の、化学者、研究者としての功績です。
高峰が「バイオテクノロジーの父」と呼ばれる所以です。
 
3.他方、彼は起業家精神に富む研究者でもありました。
 
高峰は、このタカジアスターゼを日本の三共商店に快く提供し、
三共商店は大いに発展し、「三共株式会社」を経て
今日の「第一三共」として存続しています。
 
高峰譲吉は、この「三共株式会社」の初代社長を務めました。
 
このように発明、発見したものを世に普及させようと特許を取り
志を同じくする人たちと事業化に努めました。
よって「開発型ベンチャー企業」の先駆け的存在でもあるのです。
 
4.もう一つの顔として日米親善につくし、「無冠の大使」ともよばれました。
 
( 米ワシントンD.C.のポトマック川沿いに桜並木を植え、日米の懸け橋となるべく
高峰譲吉が奔走した話は有名ですね )
 
この高峰と「日本資本主義の父」と称される渋沢栄一が協同したのが
東京人造肥料会社です。
高峰は、30歳の時にニューオリンズ万博に農商務省の役人として
参加し、先述したように人造肥料の原料になりうる「燐鉱石」と出会ったのが
彼の人生において、大きな影響を及ぼしたのでしょうね。
 
( ここで筆者は、ハタと思いました。「万国博覧会」というものの
影響力を。
渋沢が、その後の人生の航路を決めた一つの要素に、「パリ万博」が
ありました。そしてまた、同様の気付きが私に起こりました。
高峰にとっての「ニューオリンズ万博」も彼の人生に大いなる
影響を与えたのだと。)
 

この、先述した
「燐鉱石」は人造肥料の原料となるもので、欧米の進んだ化学肥料に触れたことで、
日本でも肥料を工業化すべきだという思いを持つようになり、
帰国した高峰は、さっそく化学肥料の工業化に乗り出すべく、
実業家である渋沢栄一に協力を依頼しました。
化学肥料の効能を熱心に語る高峰に渋沢は賛同し、
渋沢は日本初の化学肥料会社である東京人造肥料会社(現・日産化学株式会社)
を設立しました。
 
高峰は、同社の事業の成功を見る前に、アメリカでなすべき野望を
抱いていましたので、渋沢の引き留めに関わらず渡米し、
この渡米において、前述の、タカジアスターゼやアドレナリンの発見をなし
、世界的化学者となったわけです。がしかし、この渡米時、渋沢との間に軋轢を
生じた感もあったようですが、後日、高峰が凱旋帰国してからは、
宴をともにし旧の仲に復し、1913年、三共合資会社を三共株式会社へ
組織変更するにあたり協同し、また1917年に、高峰、渋沢、益田の
発起で「日米協会」設立をなし、また同年、渋沢が設立者総代として
(世界に誇る多くの科学者を輩出した)「理化学研究所」を設立しました。
これは
1913年、高峰が提唱した「国民科学研究所」構想がその基礎にあります。
 
1922年の高峰死去に伴う、東京での追悼式は、渋沢が主催しました。
 
以上は

「バイオテクノロジーの父」の高峰と「日本資本主義の父」の渋沢とが
手を取り合い、協同して成し遂げた偉業の数々です。
 
高峰譲吉由来の「高峰賞」は、いまでも金沢市内の、理科、数学に秀でた
中学生に授与され続けており、高峰博士の功績はずっと金沢市民の間に
リスペクトされ続けています。
 
一方、渋沢栄一は明治維新後、500を超える多種多様な会社を創り、
また多数の経済団体を設立し、福祉事業、医療事業、研究事業、教育事業を支援し、
国際交流等に多大な尽力を果たされたことはつとに有名であり、
この度の1万円札にその肖像が採用されたのは、渋沢の偉大さを大いに顕彰するものだと
思います。
 
二人とも、日本の近代化を、科学面、経済面、文化面、国力強化面等から
逞しく推進されたわけであり、日本の世界における地位を大いに高からしめた
巨人とも言うべき存在でありました。
 
増山先生のお話は、二人の、このような大をなすに至った歩みを、また二人の
協同の経緯、過程を、ダイナミックに語って頂いたわけです。
 
意外な事実として、1873年に、前年 美川に移転していた県庁を
金沢に復帰させるよう上申したのは、渋沢であった、との先生の
ご紹介は、渋沢門の存在同様、驚きでありました。
 
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