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2018年10月24日

歴史と伝統文化講演会 ー 「 葵御紋を使う金沢広済寺の由緒 」

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今年度で第5回目の実施となる尾張町商店街「歴史と伝統文化講演会」の、平成30年度第5回目(今年度は全部で10回シリーズ)の(「 葵御紋を使う金沢広済寺の由緒 」~ 水戸光圀を育てた本家 広済寺(滋賀県)の武佐 ~ )と題した講演会は10月20日(土) 中田 隆二 氏 (郷土史家)を講師にお招きし、多数の方の参加のもと、盛大に開催されました。

 

「葵御紋を使う金沢広済寺の由緒」というのが本日のメインテーマでした。

 

金沢市扇町にある真宗大谷派の広済寺の家紋がなぜ「三つ葉葵」なのでしょうか?。

 

この疑問を解き明かす前に、金沢広済寺の梵鐘に刻まれていた漢文が新発見事実として 出てきます。

 

各地の寺院で鐘を鳴らすを趣味とする粋人が、あるとき金沢広済寺にやって来て鐘を撞いたところ 鈍い音がしたそうです。そのため住職殿が調べたところ鐘の底にひび割れがあったため、住職殿はこれを高岡の銅器会社に 処分のため売却したそうです。しかし住職殿は、この鐘に刻まれていた漢文の内容が以前から気になっており、 調べる決心をし、さっそく本日の講師の中田先生に鐘に刻まれた漢文の調査を依頼しました。 鐘は処分寸前だったところ、すんでのところで間に合い、本日の講師の中田先生の解読作業に供せられました。

中田先生の解読によると

この鐘には加賀一向一揆の拠点だった「尾山御坊」の由来が記されていました。

1501年、江州広済寺10代厳誓坊祐念の次男の「祐乗坊」が本願寺の実如の命を 受け尾山御坊に長く滞在し、寺院を建て布教した、などど記されているわけです。

金沢広済寺はこの祐乗坊を初代とするわけです。

この鐘に刻まれた文書は一向一揆についての貴重な史料となるわけですが、中田先生、この文書の真偽のほどを 確かめたいという思いに駆られます。

そこで先生は、滋賀 近江八幡にある本家の広済寺に行って本家の歴史を調べることにされました。

 

そこで分かったのが以下のことです。

 

本家広済寺の由緒書には、本家広済寺8代住職の岡崎安休(あんきゅう)に関すること、また、家紋の由来が 記されていたそうです。

 

安休は浅井長政と異母兄弟にあたり、ゆえあって広済寺に入り、僧侶となった。 優れた知恵と軍略を身に付けており、天正年間(1575~1592)の一時期、顕如の命を受けて尾山御坊に派遣 され、僧侶を率い、加賀、越前の門徒を治めた。 打倒信長のため一揆の指揮を執ったわけです。

 

この安休には「感」と「武佐」という娘がおり、二人とも御三家水戸藩の初代徳川頼房公の乳母としての任を果たしました。 特に武佐は、頼房とその側室の長男(高松藩初代藩主松平頼重公)と次男(水戸藩二代藩主徳川光圀公、俗にいう水戸黄門)の命を守り 育てた養い親だったのです。

 

安休は武佐の嫁いだ三木家と水戸徳川家を通じて徳川家康と親交を深め、家紋「三つ葉葵」や刀を賜ったことが由緒書に記されている、 とのことでした。 こうして本家広済寺では葵の紋を用いるようになります。のちに重要な儀式では松平頼重公よりいただいた葵御紋の幕を使用したとも伝わります。

このようにして安休が家康公より拝領した葵御紋は金沢広済寺にも受け継がれ、寺紋とするようになったのです。

 

中田先生のご活躍により、以上の歴史的新事実が明らかになったわけです。

 

梵鐘の調査、近江の広済寺の史料の調査等々、中田先生の、ロマンある歴史的時空探訪の旅が一つ結実したわけですね。

 

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次回は、11月17日(土)「 北前船と全国市場 」~ 北前船がもたらした加賀藩、石川県への貢献及び経済効果 ~ 」(講師:金沢歴活 代表 安藤 竜さん) です。

安藤さんといえば、昨年9月16日に「江戸時代の近江町市場と尾張町」と題した講演をされ、大好評を博した あの新進気鋭の歴史家の安藤さんです。

安藤さん独特の視点からの「北前船」論が展開されることと思います。

楽しみですね !!!

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