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2023年3月19日

木越先生の、前田家安泰化の礎固めについての、明瞭なる絵解きの如き講演

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今から約3年前(令和2年2月15日)、日本近世史のスペシャリスト 木越隆三先生
(現在 金沢工業大学客員教授)の講演会を催させていただきました。
NHKブラタモリの金沢編のときに、タモリ・桑子さんご両人の案内役を見事に
務められたときと同様の、明瞭な語り口、明確な説明により、講演会聴衆の
旺盛な知識欲に充分応えて頂いた、あの木越先生の、待ちに待った久々の、
その時以来の講演を、本日(令和5年3月18日)再び挙行できる運びとなりました。
 
本日のテーマは「前田利常と三人の息子たち」という、
加賀藩の発展及び分家の生誕に関わる、加賀藩にとっては大いなる岐路の
時期のお話でした。
 
先生は、当テーマを分かりやすく解きほぐすために、豊富な資料を
皆に配布されました。
(『前田家と徳川家、皇族との関係を俯瞰できる、とっても工夫された
家系図』、『「利常と三人の息子たち」について詳説した資料』、『関ヶ原合戦直前の
利長の苦悩を綴った書状(村井豊後長頼宛)』などの資料。)
これらを引用されながら明解に、明瞭に、利長から利常、その三人の息子たち、
そして綱紀、にいたるまでのこの時期の前田家の、苦境を切り抜けるための工夫、
賢策、の数々を我々の前に絵解きさながらに説明して頂きました。
3年前の前回講演通りの、明瞭な語り口、明確な説明の再現でした。
 
『前田家と徳川家、皇族との関係を俯瞰できる家系図』は前田家と徳川家の
緊密な関係を示しており、光高以降は前田家は単なる外様大名ではなく、
徳川の親戚大名であったわけです(徳川家光政権下では徳川の「家門」待遇であった。
利常は水戸、伊達、島津と並び1626には中納言に昇進)。
ことに、徳川家康の子孫の中には将軍に非協力的な者もいて、徳川家と縁戚
となった前田家は頼りになる存在であったこと、光高、利次、利治は
徳川の血筋を引き、幕府から見て、特別な存在になっていたこと、
それらのことが加賀藩の安寧安泰に大いに寄与したことなどが説示されました。
 
最後に先生は、『関ヶ原合戦直前の利長の苦悩を綴った書状』を解説されました。
この書状は利長の、利政に対する不満を述べた書状であり、
宛先は利長から村井豊後長頼宛のものでありますが、いずれは
母の芳春院の目に留まることを想定してのもので、弟 利政との仲たがいを
芳春院に悟られまいとする苦心の書状であり、利長の苦悩が
ひしひしと伝わるものでした。
 
大藩 加賀藩の安泰の基礎を築いた、前田家の利常及びその前後の
名君たちを詳説した講演でした。
利長の偉大さが充分伝わります。
利常の偉大さも充分伝わります。
 
とまぁ 先生の話の概要は以上の如くです。
タイトルは「利常と三人の息子たち」でありましたが、先生の一番強調
したかったのは、利常の大活躍のさま だったと拝察しました。
珠姫の入輿時あたりの利長の苦労も、多大なものがあったでしょうが、
そのあとを継いだ利常の苦労、功績も多大なものがあったわけですね。
 
藩内での内政における人事面、経済政策面(EX 改作法等)、そして
徳川との関係を穏便に運ぶための外交面、大坂両陣などにおける軍事面、
等々においての利常の活躍には目を見張るものがあったわけです。
 
まさに利常は「名君」であったわけですね。
 
ざっと1時間半、木越先生の講演はまことに密度の濃いものでありました。
史実に忠実に基づいてのものでありながら、どこかしらドラマティックな
展開で、歴史ロマンがそこかしこと漂う、名講演でした。
 
聴衆一同、加賀藩、前田家の名君たち、に対する誇りの念が一層強まった
講演となりました。
聴衆一同を代表して、木越先生に心から感謝申し上げます。

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