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2014年11月21日

親分ことM先生

英語パンフレット類

当館備付の、英語パンフレット類(金沢の歴史、工芸、芸能等の紹介)。M先生とは関係ありませんけど。

 

 

M先生が当館に来館されてから1年以上が経つ。 隣の町民文化館によく来館されていて、ここ(老舗交流館)へも足を運んで頂いてからのお付き合いとなる。 先生といってもだいぶん前にリタイアされていて、今の御年は80くらいである。 したがって「もと」先生ということになる。元 中学の英語の先生である。 というと先生然とした風貌、たたずまいを想像されるだろうが、そうではない。 先年亡くなった俳優の三国連太郎似といえば分ってもらえるだろうか。三国連太郎をさらにコワモテにした感じである。

初めてお会いした時は、そのコワモテの表情ゆえ 私はその世界の人、いわゆる「任侠の人」を想像した。 風貌だけではなく話し方も「任侠の人」であった。 いろいろとお話しさせて頂いて元 教師の方とわかった。元 中学の校長先生である。 (教職にあられた方であるが、風貌どおり大変な親分肌の人であることに変わりはない。)

 

日本の学校での、従来の英語教育はreading、writingが中心で オーラル英語ではなかったので、昔の英語の先生は、英会話がそれほど得意とは限らない。 しかし、ことM先生に関しては、英語の達人である。それは先生のヨーロッパ、アメリカなどでの 数々の武勇伝からうかがい知れた。(外人とやりとりするには英語の達人となってないとできません。)

先生には海外での留学経験があったとは聞いていない。  先生がreading, writing はともかく オーラルに関する語学教材が乏しい昔において なぜhearing, speaking に堪能になられたのか ちょっと不思議であった。 その不思議は先日解けた。 先生に改めて語学遍歴を聞くまでもなく、先生の交遊録から疑問は解けた。

昭和20年代の後半の学生時代、先生は在日米軍の将校と大の親友になったそうである。 その将校は日本人を敬遠していたのだが、先生の(他の日本人には持ち合わせていない)誠実さがその将校に 通じたのであった。毎夜、酒を酌み交わし、日本、米国の垣根を取り払って青春を語り、人生を語り、良き友となったのであった。 およそ語学習得の王道は、異国人同士がお互い顔を見合わせ、心から伝えたいことを、言葉のみならず身体全体を使って表現することに あった。 先生はそういった境遇を、(一種の任侠的とも思える)誠実さで獲得したのであろう。 先生の英語がまことに卓抜なのは以上の理由による。

 

先生はスポーツマンである。今はゴルフ三昧の生活のようであるが、(私の知っている範囲では)空手をおやりになり、若いころは 野球をやっておられた。泉丘高校時代は正遊撃手として活躍された。甲子園出場はならなかったが、親善試合かなにかで 愛知の強豪 享栄商業と対戦したことがある。この時のピッチャーは金田正一である。高校2年夏途中で高校を中退、プロ野球・国鉄に入団し 弱冠17歳ながらいきなりチームのエースとなり、最終は日本プロ野球最高の400勝をあげたあの金田である。 おそらく金田は石川の泉丘相手なので真剣には放らなかっただろう。しかし、M先生の任侠の風貌である。眼光鋭くにらみつけるM先生に対し、 後年、球界天皇と言われた金田ですら恐れをなし、真剣勝負を挑んだことだろう。先生の話では凡退したとのことだが、痛烈なファールの 2~3本くらい打ったに違いない。いや、謙遜しぃの先生のことだから、ヒットくらい打っただろうが、単打では自慢にならないとみえ 私には凡退と言ったのかもしれない。(今の人には分からないだろうが、金田投手というのは、今の160キロ投手の日本ハム 大谷、 あるいは大リーグで活躍するダルビッシュ、田中クラスより速かったしカーブは切れた、そのほどの投手である。)

 

さぁて、先生の最大の逸話は、ここからが始まりです。 若かりし頃、先生の友人か誰かが先生の写真を映画会社に送ったそうだ。いわゆるニューフェース募集というやつである。 映画会社は東映であった。 なんと先生は決勝まで残ったらしい。決勝までですよ!! そして見事、決勝で散ったらしい。誰が相手ですって???

なんと その相手というのは、先日お亡くなりになった国民的大スター 「高倉 健」さんなのであった。

もし相手が健さんでなかったら今頃 私はM先生のことを、この稿で「元 銀幕のスター Mさん」と紹介してたはずであろう。

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